根古屋城/埼玉県横瀬町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

根古屋城は、秩父盆地の南東の入口にある大きな山城です。
訪問日は2020年12月29日です。

根古屋城【1】
①遊歩道西口

根小屋城は2013年11月13日にも訪ねたことがありました。
この時は道が狭くて、バイクを停める場所に苦労しました。
前回の反省も踏まえ、今回は神社に停めさせて頂きました。
少し離れていますが、神社の縁起にはこの地方の歴史が書かれています^^
神社から近い方の登城口が、遊歩道の西口です。

根古屋城【2】
①遊歩道西口にある案内図 拡大表示

上の写真に写っている案内図です。
ココからどう進めばよいのか描かれています。
しかし、案内に従って進んだ結果、民家の庭先で詰みました。
細道の奥に案内が立っていたのですが、そこで行き止まりでした。
幸いその家の方が道を教えて下さり助かりましたが・・・
これが「どこから入ったらいいのかわからない」と言われる所以です。

根古屋城【3】
①遊歩道西口

教えてもらったルートは、写真の通りです。
×と書かれた方は誰でも避けると思いますが、こっちが正解です。
突き当りから左へ、山中へと進む道があります。

根古屋城【4】

西口から城内へと続く道です。
何となく山の方に入るんだな~、こっちでよさそ?という感じです。

根古屋城【5】
②西郭の虎口

お墓の脇を通り過ぎると、虎口がお出迎えしてくれます。
重厚な土塁に囲まれた、かなりしっかりした虎口ですラブラブ
このホーム感、おかえりなさい!の声が聞こえてきそうです。

根古屋城【6】
②西郭の虎口

虎口から入った所が西郭です。
入ってすぐの所に、きれいな説明板があります。
迷った挙句に疑心暗鬼の人には、とてもまぶしく映るかもしれません。

根古屋城【7】
②西郭の虎口付近にある説明板 拡大表示

案内図は立ち位置が基準となっており、南が上、北が下です。
曲輪の配置とか遊歩道がしっかり描かれているのはいいのですが・・・
やっぱり右下の西口の所が頑なさを感じてしまいますあせる

根古屋城【8】
②西郭下の段

西郭は御殿と呼ばれるだけあって、かなり広い曲輪です。
幅も奥行きもあり、馬場に出来そうなくらいです。

根古屋城【9】
②西郭から見た腰郭

右下にも同じくらい広い腰曲輪が見えます。
こっちも見に行きたかったのですが、陽が暮れそうなので断念しました。

根古屋城【10】
②西郭の段差

西郭を奥へ進むと、3メートル程の段差があります。
下からは土の壁にしか見えません。

根古屋城【11】
②西郭上の段

右隅に通路があり上がると、上にも大きな曲輪があります。
ただし、左半分は笹が密生していて入ることが出来ませんでした。
笹薮が無ければ、かなりの広さだったと思われます。
図に描かれている右側の「追手」が気になりましたが・・・
こちら側もやや濃いめの笹だったので、後ろ髪引かれる思いで諦めました。

根古屋城【12】
③西郭から本郭への尾根道

西郭の奥へ進むと、目の前に長~い階段が現れました。
私は階段が苦手なので一瞬ウッ!となりましたが・・・
段差が低いので大丈夫でした^^
尚、時計回りに進むと東郭と二の郭の間にも階段があります。
そちらは一直線のかなり長いものです。
前回はそっちから回って、かなり辛かった記憶があります。
根古屋城の回り方としては、西郭からの反時計回りがお勧めです。

根古屋城【13】
③西郭から本郭への尾根道

説明板の図では、西郭の上に2つ、小さな堀切が描かれています。
私の目に映ったそれらしきものといえば、途中にあった小さな段差です。
玄人様にはこれが堀切様に見えるものかと、じっと見入りました。
確かに半月型にうっすらと窪んではいますけどあせる
ヒヨッコの推測では、柵だけの小さな門があったんじゃないかと思います。

根古屋城【14】
③本郭に続く道

こちら側の道は本当に傾斜が緩く、とても歩きやすいです。
もはや階段など要らない程ですが、通り道を限定する役割のようです。
城キチに自由に歩かせると、高い所に集まる習性がありますからねw

根古屋城【15】
④本郭の入口

遊歩道を進むと、道端に案内図があります。
ここから、藪の中に階段が付けられています。
見た感じでは、往時の通路ではなさそうです。

根古屋城【16】
④本郭

階段を登り切った所から見える光景です。
本郭だけど、ナナメじゃね?というのが率直な感想です。
まぁそれでも、説明板があるのでそちらに吸い寄せられますw

根古屋城【17】
④本郭

斜めなのは、本郭から二の郭へ下る尾根だからでした。
この尾根をちょっとだけ上がった所こそが本郭です。
やっと平らな場所に出た!と思ったのですが・・・
白地に赤い文字の立て札が見えます。

根古屋城【18】
④本郭

ということで、立て札から先は急斜面となっています。
軌跡を載っけた方の地図で描かれている通り、ザックリ削られています。
本郭は、石灰石採取のため崩され消滅していますT_T
まぁこれ以上崩されることは無さそうですが・・・

根古屋城【19】

本郭からは元来た階段を下りず、尾根に沿って下りました。
この下にあるのが二の郭です。

根古屋城【20】
⑤本郭側から見た二の郭

入口が堀に挟まれた土橋に見えますが、こちら側からは不明瞭です。
本郭がどれ程の規模だったかは不明ですが、二の郭はかなり広いです。
GPSの軌跡を見た感じだと、西の郭に匹敵する長さがあります。
二の郭も遊歩道以外は下草で埋もれています。
私は二の郭の規模が知りたかったので、下草を掻き分けて一周しました。
「アイツ何故わざわざそんな所を歩くんだ?」と思われそうですあせる

根古屋城【21】
⑤二の郭南側の堀と土橋

二の郭の内側から見た本郭側の入口です。
堀で道が狭められ、通路を限定している様子が見られます。

根古屋城【23】
⑥腰郭

二の郭からは、階段で一気に急降下です。
逆だと「ここ神社でもあるのか?」と思うような猛烈な階段です。
そんな苦い思い出があり、ここを下る方向で城内を回りました。
下の等高線を見ると、二の郭と腰曲輪の比高は50メートル以上あります。

根古屋城【24】

腰郭からは、道は水平になります。
遊歩道からは、谷を隔てて東郭が見えます。
この谷底も曲輪で、図では水の手郭と書かれています。

根古屋城【25】
⑦東郭

図で東郭が描かれている場所です。
何となく平坦面があるんだな?とはわかりますが・・・
現状は御覧のような状態です。
そういえば前回はGPSも無いのに一周しました。
よくこんな所入ったなぁ、あの時は若かったなぁなんて思いました。

根古屋城【26】
⑦2013年訪問時の東郭

そう思って前回の写真を漁ったら、当時の東郭はこんな感じでした。
以前は笹が無く、歩こうと思えば歩ける状態でした。
まぁ、写真載せてもいつもの風景にしか見えませんけどw

根古屋城【27】
⑧遊歩道北口

一周回って、北口から出ました。
城内へ入ることだけ考えれば、こっちからなら迷いません。
ただし、周辺に車を停められる所がありませんあせる

根古屋城【位置】

根古屋城内を歩き回った軌跡です。
再訪問したのも、これが欲しかったからデスラブラブ
とは言え、前回は記憶が曖昧だった所もありました。
登城口の西口もハッキリしたので、再訪問して良かったと思います^^


◆歴史◆

平安時代に秩父氏により築かれたと伝わります。

『新編武蔵国風土記稿』秩父郡巻之九横瀬村の項に登場します。
そこには、秩父武光から重能までの5代が「居住セシ」と書かれています。
秩父武光でググっても何も出ず、畠山重能から辿り平武基が5代前でした。
平武基は平安時代の人物で、平将門の曾孫に当たります。
秩父別当として、勅旨牧である秩父牧を管理することで力をつけたとされます。
子が前九年・後三年の役で先陣を務めた秩父重綱です。
源氏との縁が深いのですが、4代目の秩父重弘の時に家督争いがありました。
この時に秩父氏は分裂し、畠山氏と河越氏となります。
5代目の畠山重能は男衾郡畠山または下吉田の鶴ヶ窪に移りました。
これにより、根古屋城は一時廃れたようです。

1515年、上杉憲房により再整備されたと伝わります。

麓の西善寺の寺伝にそのような記述があります。
上杉憲房は上杉顕定の養子で、同じく養子の上杉顕実と家督を争いました。
この争いは古河公方の親子喧嘩とリンクし、関東を真っ二つに割っています。
これが永正の乱で1512年、上杉憲房が勝利し、家督を継ぎました。
1515年には上杉顕実が病没し、関東管領職も継いでいます。
この年に上杉憲房は西禅寺を中興開基し、西善寺に改めました。
これ以降は西善寺を直接管理したそうで、上杉憲房の位牌もあります。

1546年、上杉憲政が一時滞在したとする説があります。

上杉憲政が宿敵と組んでまで仕掛けた河越夜戦ですが・・・
圧倒的不利だった後北条軍の夜襲により、扇谷上杉家当主が討死し滅亡。
上杉憲政は命からがら、上野国の平井城へ逃れました。
その際『秩父誌』では、一時根古屋城に滞在したとあります。
この時「小御嶽ら物見をす」とあり、敵襲に備えた様子が伝わります。
やがて平景光が挙兵し、上杉憲政を攻めました。
上杉憲政は逃れ、永田外記が横瀬村字中野で討死しています。

平景光はその後、北条氏康の四男を養子に迎えたとされます。
これが後の北条氏邦で、秩父新太郎氏邦と名乗ったそうです。
平景光が謎の人物ですが、有力候補は犬懸長尾氏の一族です。
ググって出てきた所では、秩父将監と書かれていました。
北条氏邦の養父として有名なのは藤田康邦です。
藤田康邦も、河越夜戦の後に後北条家に降伏した有力者です。
武蔵七党・猪俣党の出身で、秩父姓は名乗っていないそうです。
「邦」の字は藤田康邦から継いでそうなので藤田→秩父→北条かもです。

後北条家の城として存続しました

1572年までは朝見慶延が城主でしたが、その前後が?です。
朝見氏はの元の表記は阿佐見氏でしたが、武田軍との戦功で改名しています。
吉田の盾での活躍なので、1569年に城主になったと考えられます。
1572年以降は上野国勢多郡に移り、以後は渡辺監物が城主となります。
1590年、後北条家は豊臣秀吉に攻められ滅びました。
根古屋城は北国勢に攻められ、鉢形城とともに開城したと伝わります。
誰が守っていたのかが???ですが・・・
朝見慶延の子・朝見左馬助は、日野沢村(現皆野町)で帰農しています。


所在地:埼玉県秩父郡横瀬町横瀬 GPSログダウンロードページ

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