小倉城/埼玉県ときがわ町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

小倉城は「比企城館跡群」として、国の史跡に指定されています。
訪問日は2020年12月26日です。

小倉城【1】
①登城口の大福寺

小倉城には2012年5月に来たことがありました。
私自身、同じ城跡を再訪問するのはとてもレアケースです。
年末年始のウォーミングアップとGPSログが欲しかったのが理由です。
登城路はいくつかありますが、前回と同じ大福寺から登城しました。

小倉城【2】
①大福寺前の説明板の図 拡大表示

入口にある説明板の図です。
前回は等高線だけでしたが、今のは登城路も描かれています合格

小倉城【3】

前回「忘れちゃった」と書いていた登城口です。
本堂を通り過ぎた所で、山の方を向いています。

小倉城【4】

小倉城は山城なのですが、登城路は緩やかです。
すぐに上が見える程度の高さです。

小倉城【5】
②東腰曲輪 説明板を拡大表示

登城口から5分で東腰曲輪に到着です。
虎口っぽく見える脇に、ついつい見てしまう説明板があります。

小倉城【6】
②東腰曲輪の石垣

説明板の通り、土塁に布積みの石垣が埋もれていましたラブラブ

小倉城【7】
③桝形虎口 説明板を拡大表示

東腰曲輪を通り過ぎると、ウネっと曲がった所に出ます。
例の説明板があるココは北虎口です。
大福寺の北から尾根伝いの登ってくる登城路がココにつながっています。
虎口の大きさだと、ここが大手門っぽい感じがします。

小倉城【9】
③北虎口

桝形虎口の内側で回れ右すると、そこにも虎口があります。
ココが主郭の北虎口です。

小倉城【10】
③北虎口

ココの土塁にも、薄い石を重ねた石垣が埋もれています。

小倉城【11】
③北虎口の内側 説明板を拡大表示

北虎口から入っても、堀底のような通路になっています。
左側に見えるのが主郭の北半分で、1段高くなっています。
虎口を突破しても、横の主郭からずっと横矢に晒される構造です。

小倉城【12】
④主郭 説明板を拡大表示

主郭は真ん中で段差になっていて、ここに城址碑と説明板があります。
右側の石碑には文字が刻まれており、8年前はクッキリでした。
周りは木々が茂っており、時の流れを感じます。

小倉城【13】
拡大表示

せっかくなので、イタダキます♪
ここの図は8年前と同じです。
かなりキレイにはなってますが^^

小倉城【14】
④主郭の南半分

主郭の南半分は、グルっと土塁で囲まれています。
切り株が沢山あるのは、見学しやすいよう伐採されたんですね!
北半分は、、、よく見てませんでしたあせる
ちょっとショックな出来事あったので・・・

小倉城【15】
④主郭東虎口

北虎口方向から左側に、土塁の切れ目があります。
足元にマットが敷かれていて、滑らないようになっています合格

小倉城【17】
⑤三郭手前の堀切

主郭東虎口のすぐ外に、横一文字にザクっとありますラブラブ

小倉城【18】
⑤三郭

堀切の奥には土塁があり、ここにも石垣があります。
東虎口の外に堀切・土塁があり、なかなか厳重な造りになっています。
登城路は通っていませんが、東側の緩い尾根を警戒したようですね。

小倉城【19】

主郭に戻り、端の土塁上から見た光景です。
土塁に囲まれた大きな曲輪が二郭です。

小倉城【20】
④主郭南虎口

主郭の二郭側にあるのが南虎口です。
縄張図見る限り、南虎口は西、東虎口も南にあります。
たぶん名前を付けた時の主観だったのかと。

小倉城【21】
④主郭南虎口の外側

南虎口から二郭へは、主郭の城塁を回り込む格好となっています。

小倉城【22】
⑥二郭脇の帯曲輪

主郭側から見て、二郭の左脇に細長い曲輪があります。
縄張図を見ても、特に名前が付いていません。

小倉城【23】
⑦四郭脇の竪堀

帯曲輪の脇には、斜面をザーッと下る竪堀があります。

小倉城【24】
⑦大堀切

竪堀の付け根は、二郭の端につながっています。
奥の高い所が二郭、左右に分厚い土塁があります。
こっち側から見ると二郭に上がれる虎口があると錯覚します。

小倉城【25】
⑦大堀切

そう思って奥まで進むと、反対側の斜面に出ますw

小倉城【26】
⑦西端の虎口

大堀切から先に、城外へと出る虎口があります。
こちらから出る道は、物見山を通って青山城にもつながっています。

小倉城【27】
⑥二郭

端まで行っちゃいましたが、上の二郭がまだでした。
こちらは主郭に負けない程大きな曲輪です。

小倉城【28】
⑥二郭から見た大堀切と四郭

二郭先端部は分厚い土塁があり、その上から大堀切と四郭が見えます。
上から見ても、大堀切から二郭に入って来れそうに錯覚します。

小倉城【29】
②東曲輪

ひと通り見終わって、大福寺へ下りよう!
と思って見たら、東曲輪群もなかなか魅力的です。
正面上に見える窪みは、三郭手前の堀切です。
こっち側も大福寺から上がって来る道を警戒してたんですね。

小倉城【30】
⑧三郭脇の石垣

そんな感慨にふけっていましたが、石垣の説明板見つけました。
三郭の城塁沿いの踏み跡を辿ると、一面ビッシリの石垣ありましたラブラブ
ここの石垣が一番整っていますので、お見逃しなく!

小倉城【配置】

写真の位置図です。
8年前には無かったGPSという武器、役に立ってますラブラブ
同じ道を通っても線がなかなか重なりません。
最近買った精度がいいらしいヤツでも、安物と大差ありませんでした。
5個使って一番幅の狭く出たログを採用していますが・・・
だいたいわかればオッケー!って、広い心で見て下さいあせる


◆歴史◆

遠山氏または上田氏の城と伝わります。

城主や築城時期などは不明確です。
正式に城主等を記した史料は無く、伝聞として

『新編武蔵風土記稿』(田黒村の項)では
「北ノ方ニテ小名小倉ノ内ニアリ
 遠山右衛門大夫光景カ居城ノ蹟ナリト云
 四方二町許ノ地ニシテ東北の二方ハ都幾川槻川ノ二流ニ臨ミ
 西南ハ山ニ添フテ頗ル要害ノ地ナリ
 光景ハ隣村遠山村ノ遠山寺ノ開基檀越ニシテ
 天正十五年五月卒セシ人ナレハ爰ニ住セシモ元亀天正ノ頃ナルヘシ」

『武蔵誌』では
「要害ハ連山ノ鼻槻川ヲ北東南ニ帯シ岸嶮ク高シ
 遠山右衛門太郎住シタルトモ
 後・上田・・・・(安楽斉)隠居城トモ云」

と記され、遠山右衛門と上田安楽斉の名が伝わります。

遠山氏について

遠山氏は美濃国遠山荘の出身で、北条早雲に従って関東に移りました。
その初代が遠山直景で、北条氏綱が奪った江戸城の城代を務めています。
1564年、第二次国府台合戦で遠山綱景と嫡男・隼人佐が戦死。
この時、遠山家の動きに諸説ありますが・・・
『新編武蔵風土記稿』では遠山綱景の弟・遠山直親が継いでいます。
遠山直親の小倉城は、子の遠山光景が城主となりました。
遠山光景は1587年に没し、位牌が北西の遠山寺にあります。
麓の大福寺にも、夫人の位牌があるそうです。
1590年に後北条氏が滅ぼされ、この時に遠山家は一時没落しました。
その後、旗本として江戸幕府に仕え、桜吹雪の人物を輩出しています。

上田安楽斉について

おそらく上田朝直のことと思われます。
上田朝直の法名は安独斎宗調ですが、別名に暗礫斎があります。
伝聞で当て字だと安楽斉と誤記されそうな感じです。
上田朝直は松山城主・難波田憲重の娘婿でした。
1546年、河越夜戦で難波田憲重が戦死。
松山城は難波田憲重の娘婿・太田資正が継ぎました。
翌年、太田家の当主が没したため太田資正が岩付城に移ります。
太田資正は、同じ境遇の上田朝直に松山城を「預け」ました。
しかし上田朝直は借りパクして後北条家に鞍替え。
これ、絶対に確信犯ですねw
1559年、長尾景虎(上杉謙信)が関東に攻め込んだ時に再び鞍替えします。
しかし1561年、所有権を主張した太田資正に松山城を返すよう命じられます。
太田資正も上杉謙信(この名前で統一します)に従っていたんですね。
上田朝直は1563年に北条・武田連合軍が攻め込んで来た時に降伏。
後北条家に復帰しますが、松山城は後北条家直轄の城となります。
その後、1569年の武田軍との戦(三増峠)で手柄を立てて松山城に復帰。
上田氏は1590年に後北条家が滅びるまで、松山城の城主を務めています。

近くの松山城を中心に支配したのは確かに上田朝直なのですが・・・
一度裏切ってるので、見張りを付けるという条件も考えられますし。
小倉城の構造も、東側の松山城に備えているように見受けられます。
さらには、北西の麓に「遠山村」なんて地名まであります。
小倉城の両側に所縁のお寺がある遠山氏の方が、城主っぽい気がします。


所在地:埼玉県比企郡ときがわ町田黒 GPSログダウンロードページ

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