勝尾城/佐賀県鳥栖市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

勝尾城は、筑紫の大族・筑紫氏の本拠地でした。
城砦群の総称でもありますが、その中の1つの山城を紹介します。
訪問日は2019年2月9日です。

勝尾城【1】

筑紫氏館跡は2016年8月に訪ねていました。
周辺の砦も見学しましたが、勝尾城は山の上ということで回避していました。
その後、城跡近くまで林道が開通して、気軽に訪ねられるようになりました。
そう知って、丁度近くを通った時に立ち寄りました。
ここがその林道で、トンネル前に大きなスペースがあります。
ミステリーな丸い地上絵がありますが、ここに車を停められます。

勝尾城【2】

登城口は、トンネルの左脇にあります。
このトンネル、まだ真新しいですが・・・
私が訪ねた時は、向こう側は崩れた土砂や木で埋まっていました。
通行止めの案内も出ておらず、ココに来るのは城キチだけのようです。

勝尾城【3】

トンネル脇からの登城路です。
林道は真新しいのですが、この道は昔からあったようです。

勝尾城【4】
①分岐

登城路を進むと、T字路にぶち当たります。
左が筑紫氏館、右がこれから訪ねる勝尾城です。
筑紫氏館跡から勝尾城へは、2本の道があります。
この道はその2本の内、東側にある道です。

勝尾城【5】

進んでいく内に、山のテッペンが見えてきました。
見えちゃうと、大した高さじゃないように錯覚してしまいます。

勝尾城【6】
②大手曲輪

道が何となく険しくなってきた?と感じ始めた辺りで、案内が現れます。
正面を横切る土の壁が、大手曲輪を囲む土塁の役割を担っていたようです。

勝尾城【7】
②大手曲輪

土の壁の上から見ると、大手曲輪は窪みの底にあるように見えます。

勝尾城【8】
②大手曲輪の説明板 拡大表示

ここには説明板があります。
図を見ると、小さな段が沢山集まって構成されているのがわかります。
そしてココはまだ入口で、勝尾城の主要部はまだまだ先です。

勝尾城【9】
②大手曲輪

奥の方には石垣が残っています。

勝尾城【10】
②大手曲輪

石垣が両脇に迫っており奥へと続く感じなので、虎口だったようです。
説明板では登城路が回り込みますが、往時はココを真っすぐ登ったのかも。

勝尾城【11】

大手曲輪から先の登城路は、大きな岩がゴロゴロしています。
石垣の素材には事欠かないですね!

勝尾城【12】
③主郭と二の丸の分岐

ひと際大きな岩の下に、白い案内が見えます。
左が主郭、右が二の丸です。

勝尾城【13】
③主郭と二の丸の分岐

真冬の夕方4時半なので、先に主郭を見て来ました。

勝尾城【14】

主郭に近づくと、次第に石垣が増えてきます。
この石垣、登り石垣に見えませんか?

勝尾城【15】
④鞍部

岩ゴツゴツの険しい山道を登り切ると、嘘みたいに平らになります。
ここにも案内があり、左が山頂、右が主郭とありました。
すぐ近くに見えているので、先に山頂を見て来ました。

勝尾城【16】
⑤城山山頂

山頂も大きな岩がゴロゴロしています。
こちらには伝物見岩の標示がありました。
木々が無ければ、とても見晴らしが良さそうです。

勝尾城【17】
④鞍部

山頂から主郭側を見たところです。
登城路が上がってきた所も、かなり広い平坦地です。
名前はありませんが「勝尾城の曲輪」の標示がありました。
山頂まで含めての主郭部なのでしょうけど。

勝尾城【18】
⑥主郭の説明板 拡大表示

鞍部を挟んで山頂の反対側にある主郭です。
登城口の案内通り、22分で辿り着きました。

勝尾城【19】
⑥主郭

主郭は一段低い帯曲輪っぽいのに囲まれています。
大手曲輪と比べても、かなり規模が大きいです。
流石は戦国大名・筑紫氏の本拠だけありますラブラブ

勝尾城【20】
⑥主郭

北西の端には、下っていく遊歩道があります。
縄張図でこちら側を見ると、少し先に細い小さな平坦地があります。
下って行ったら、門か虎口の跡などが見られたかかもしれませんあせる

勝尾城【21】
⑥主郭

主郭の上の段です。
かなり広いですラブラブ
それと、かなり綺麗に真っ平らです。
これって意外とあんまり無い事です。
それだけ筑紫氏の権力が強かったってことですね^^

勝尾城【22】
⑥主郭

端っこには少しだけ石垣が見られます。
ここを畑にした人、いないですよね?w

勝尾城【23】
⑦二の丸前の堀切

陽が落ちかけているので、駆け足で二の丸へ。
主郭と二の丸の分岐から二の丸方向へ進むと、それとわかる窪みがあります。
縄張図では「堀切」と書かれています。
こんなに平らな面でも、何かそう呼ぶ定義みたいなのがあるようですね。
尾根を分断している、とか。

勝尾城【24】
⑦石垣の案内

そのまま進むと、道端に白い案内が。
手前方向が「勝尾城」、左向きが「石垣」です。

勝尾城【25】
⑦二の丸の石垣

ここにある石垣が、城内で一番まとまっています。
積み方、崩れ方、苔むし方、どれも最高ですラブラブ

勝尾城【位置】

私が歩いたルートと写真を撮影した位置です。
隅から隅まで見たつもりでも、後から見るとそうでもありません。
二の丸が漏れてますし、等高線見ると気になる所も出てきます。
最近、今までより精度の良さそうなものが発売され、購入しました。
そいつを持って山深い城跡を訪ねるのが楽しみになってきました♪


◆歴史◆

1423年、渋川義俊により築かれたと伝わります。

渋川義俊は九州探題です。
父・渋川満頼が今川了俊の更迭を受けて九州探題となっています。
それ以来、反対勢力である少弐氏や菊池氏との抗争が続いていました。
1419年、父親が九州探題を退任したため、後任となります。
しかし、1423年に再び少弐満貞と戦になります。
勝尾城が築かれたとされるのはこの頃です。
この戦は少弐満貞が勝利し、博多を奪われました。

少弐氏が九州探題に反抗的なのは、初代九州探題の頃からでした。
1336年、足利尊氏が建武政権に謀反を起こし、九州に逃れて来ました。
この時、少弐頼尚は足利尊氏に協力し、反撃のため全面協力しました。
その上洛中に大宰府を宮方の菊池氏に攻められ、父親を討たれています。
足利尊氏は少弐頼尚の功に報い、筑前、豊前、肥後、対馬の守護とします。
しかし、同時に一色範氏を九州探題とし、肥前守護としました。
少弐頼尚はこれに反発し、一色範氏と争うようになります。

渋川義俊は少弐氏に敗れましたが、勝尾城周辺の勢力は保ったようです。
渋川氏歴代の居城となる綾部城は、勝尾城の南西約5kmにありました。
また、渋川義俊は隠居後、約20km南の酒見城で余生を過ごしています。

1497年、筑紫満門が独立します。

少弐政資に対し、幕府が討伐令を出しました。
これに応じた渋川尹繁・大内義興に攻められ、肥前へ撤退します。
しかし、逃れた先の家臣が裏切り、少弐政資・高経父子が自害します。
筑紫満門は大内義興に降伏し、領地を安堵されました。
以後、筑紫氏は大内氏に従うようになります。

1504年、渋川尹繁が少弐資元に敗れました。
この時、守護所と綾部城を失っています。
渋川尹繁は九州探題職を子に譲り、以後の消息がわからなくなります。

1524年、筑紫満門が謀殺されました。

馬場頼周が筑紫満門に少弐家に復帰するよう、調略を仕掛けて来ました。
筑紫満門の娘が馬場頼周に嫁いでおり、2人は義理の親子でした。
筑紫満門は逆に、馬場頼周に大内方へ寝返るよう説得しました。
馬場頼周は話に乗ったフリをし、居城の綾部城に舅を招きました。
久しぶりに娘や孫に会おうと筑紫満門が訪ねましたが・・・
馬場頼周は、筑紫満門を殺してしまいました。

1530年、田手畷の戦で筑紫尚門が討死しました。

大内義隆が、勢力の衰えた少弐資元を滅ぼそうと攻め込みました。
筑前守護代・杉興運を総大将に、筑紫尚門も大内方として参戦しました。
大内軍は総勢1万の大軍で攻めましたが・・・
少弐家臣・龍造寺家兼と鍋島清久らが活躍し、少弐軍が大勝しました。
この戦で、筑紫尚門が討死しています。
筑紫家は弟の子・筑紫惟門が継ぎ、少弐家に従いました。

1532年、勝尾城が大内軍に攻められました。

大内家臣・陶興房が大軍を率いて、再び少弐資元を攻めました。
筑紫惟門は勝尾城を拠点に、頑強に大内軍に抵抗しています。
この動きに、大内領の筑前へ豊後の大友義鑑が出陣しました。
大内軍は劣勢に陥りますが、陶隆康を援軍として出陣させました。
勢いを得た大内軍は少弐資元の軍勢を撃破。
さらには大友軍を退け、豊後にまで侵攻しました。
大内軍優勢の状況に、筑紫惟門は1533年12月に降伏しました。

1551年、陶晴賢が大内義隆を殺し下克上を果たします
1555年、厳島の戦で毛利元就が陶晴賢を討ち取ります
1557年、毛利元就により大内義長が滅ぼされました
大内家の滅亡により、北九州は大友家の支配地となりました。
筑紫惟門は、大友義鑑に従わざるを得ない状況となります。

1557年、筑紫惟門が山口へ逃亡しました。

筑紫惟門が大友家に反旗を翻し挙兵しました。
これは毛利元就による調略で、先に従った秋月文種に同調したものです。
しかし、秋月文種は大友軍に古処山城を攻め落とされ自害します。
筑紫惟門は圧倒的不利を悟り、一時山口へと逃れました。
その後、毛利元就の支援を得て、領地へと復帰しています。

1567年、筑紫広門が家督を継ぎました。

筑紫惟門は、反大友勢力と協力しながら大友軍に抵抗を続けました。
1559年と1564年に戦となりましたが、いづれも大友軍を撃退しています。
1567年、大友軍はエース級の斎藤鎮実を筑紫氏討伐に出陣させました。
筑紫惟門は釣り野伏戦法で大打撃を与え勝ちましたが・・・
斎藤鎮実はその後何度も攻め寄せ、ついに筑紫惟門は降伏。
筑紫惟門は人質を出し、家督を子の筑紫広門に譲りました。
そして、降伏の条件として自害しています。

1578年、大友家に反旗を翻します。

大友宗麟が耳川の戦で島津軍に壊滅的な大敗を喫しました。
大友家の衰退を予見し、北部九州では大友家からの離反が相次ぎました。
筑紫広門も大友家を見限り、龍造寺隆信や秋月種実とともに反旗を翻します。
そのため、大友家の立花道雪や高橋紹運と何度も戦うこととなりました。

1584年、沖田畷の戦で龍造寺隆信が討死しました。

龍造寺隆信が有馬晴信討伐に出陣し、返り討ちに遭いました。
家督を継いだ龍造寺政家は、島津家に従うようになります。

1586年7月、島津軍に攻められ落城しました。

筑紫広門はこの年、大友家の傘下に復帰。
高橋紹運の次男・高橋統増に娘を嫁がせています。
この戦で高橋紹運が島津軍相手に籠城し、岩屋城で壮絶な最期を遂げます。
筑紫家でも弟・筑紫晴門が鷹取城での攻防戦で討死。
勝尾城では、子の筑紫春門が川上忠堅と一騎打ちの末相討ちとなっています。
筑紫広門は島津軍に捕まり、筑後の大善寺に幽閉されました。
しかし、戦後に脱出して勝尾城を奪還しています。

1587年、廃城となりました。

大友宗麟の要請により、豊臣秀吉が島津家を討伐しました。
領地を回復した筑紫広門は、豊臣方として参戦。
その功により、筑後国上妻郡1万8千石を与えられました。
すごく近いんですが、旧領安堵とはならなかったんですね・・・
筑紫広門が去ったことにより、勝尾城は廃城となりました。


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