波川玄蕃城/高知県いの町 | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

波川玄蕃城は、山頂に築かれた小さな山城でした。
訪問日は2018年8月6日です。

波川玄蕃城【1】

城は小さいですが、麓には案内があります。
かなりザックリですがw

波川玄蕃城【2】

案内に従い、こんな道を登ります。

波川玄蕃城【3】

道は狭いですが、山頂まで舗装道が続いています。
ここは帯曲輪状の二郭です。

波川玄蕃城【4】

二郭に車を停めて、ぐるっと回りこむ感じで上がります。
土の壁の切れ間から、説明板と城址碑とアンテナが見えます。
ここが主郭です。

波川玄蕃城【5】

主郭はグルっと土塁で囲まれています。
アンテナが造られていますが、保存状態は良いそうです。

波川玄蕃城【6】

小さな主郭ですが、虎口は2つありました。
こちらが北側の虎口。

波川玄蕃城【7】

フェンスに隠れているのが南側の虎口です。
上がって来た所は、土塁を壊しちゃったみたいです。


◆歴史◆

波川清宗の城でした。

波川氏は蘇我氏の子孫で、鎌倉時代に土佐に下向したと伝わります。
長宗我部国親とともに本山茂辰と対抗。
1559年頃にその娘を正室に迎え、側近として活躍したそうです。
1574年の一条兼定追放に功があり、山路城を与えられます。
(山路城は一条氏の本拠・中村城からすぐ南の川の対岸にありました)
ここまでは順調だったのですが・・・

同年、伊予の大野直之が長宗我部元親と内通。
それがバレていまい、河野通直が大野直之を討伐しました。
長宗我部元親は波川清宗を救出に向かわせますが・・・
河野方には、毛利軍本隊が援軍として駆け付けていました。
波川清宗は勝手に和議を結んで土佐へ撤退。
長宗我部元親は波川清宗から山路城を取り上げ、蟄居を命じました。

・・・大ザッパにはこうですが、大野直之サン何度も裏切りますw
なので、波川清宗が失脚した時期がサイト様によりまちまちですあせる

早い所では1574年、一番遅い所で1579年です。
波川清宗は大野直之を見殺しにした、とあちこちで書かれていますが・・・
かなりのしたたか者で、何度も河野家を裏切りながら生き延びます。
アイツならきっと大丈夫!
何か裏で通じるものがあっての撤退だったのか?なんて思えたりもします。

1580年、廃城となりました。

蟄居中の波川清宗が不満を募らせ、謀反を企みました。
しかし、賛同する者が現れないままバレてしまいます。
波川清宗は剃髪した上で阿波国海部郡まで逃げ延びます。
しかし、頼った先の香宗我部親泰に許されず自害させられました。
長宗我部元親は、波川清宗だけでなく一族も討伐しました。
波川清宗の嫡男・波川清秀を大将に鎌田城に籠城。
長宗我部軍3千人に攻められ、一族のほとんどが討死しました。

波川玄蕃城には波川清宗の正室・養甫尼が居ました。
養甫尼は長宗我部元親の妹だったため、城は攻められませんでした。
発掘調査でも、焼けた跡は見つかっていないそうです。
波川一族滅亡後、養甫尼は出家して土佐郡成山村に隠棲しました。

尚、波川清宗の謀反で巻き添えを食った方が約2名いらっしゃいます。
1人は一条内政で、伊予に追放された直後に急死しています。
織田信長に一条内政の家臣扱いされたのが不満だったなんて説があります。

もう1人は、波川清宗の娘婿・北ノ川親安です。
元・西園寺十五将の1人で、長宗我部軍に降伏して家臣となっていました。
舅が謀叛を起こした際、長宗我部元親に起請文を出しました。
しかし、長宗我部元親は一蹴し、1583年に攻め滅ぼされています。


所在地:高知県吾川郡いの町波川

高知県の城跡/なぽのホームページを表示