志苔館/北海道函館市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

志苔館は、函館空港脇にある続日本100名城です。
訪問日は2018年6月3日です。

志苔館【1】

空港でレンタカーを借り、最初に訪ねた城跡がココです。
周辺は住宅街で、細い道が西側を通り抜けるだけです。
目の前に車は停められないので、空港脇の公園の駐車場を利用します。
よし着いた!と虎口が見えます。

志苔館【2】

虎口で回れ左すると、城内への入口はまだ奥に見えました。
ココは虎口で間違いなく、左右には腰曲輪があります。
おそらく、ここに櫓門的なものがあったと思われます。

志苔館【3】

上の写真で奥に見えた城址碑と説明板です。
続日本100名城に選出される前からあったようです。

志苔館【4】
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説明板に載っている図を拝借します。
この説明板があるのは図の左上で、十字路の一番上の所です。

志苔館【5】

城内へ入る道です。
ここも虎口ですね!
左側が内郭、右側が腰曲輪である外郭です。

志苔館【6】

そして、内郭に入る虎口です。
最初の虎口からカギ形に堀底を進む感じです。
それ自体が大きな枡形虎口のように見えなくもありません。

志苔館【7】

内郭内部は、かなりの広さがあります。

志苔館【8】

志苔館は台地の端っこにあります。
端っこだったからこそ、空港建設で潰されなかった感じです。
台地との間にあるのがこの堀です。
堀沿いに土塁があり、高低差は10メートル程あります。

志苔館【10】

ぐるっと回りこんで、東側も深い堀で隔てられています。

志苔館【11】

南側は、目の前に港があります。
城がここに築かれたのは、この港も関係ありそうですね。

志苔館【12】

虎口から出て、今度は外郭へ。
往時からこんなに真っすぐだったかは?です。

志苔館【13】

堀と土塁を隔てて、一段下の腰曲輪が外郭です。
ここに四阿とトイレがあります。

志苔館【14】

この四阿の中に、スタンプ台があります。
城跡は常時開放で、スタンプは盆正月でも真夜中でも押せます。

志苔館【15】


デザインは、北側上空から見た鳥瞰です。
私はよくスタンプと同じアングルで写真撮るのですが・・・
このアングルは、地上からは無理ですw


◆歴史◆

14世紀末~15世紀中頃に使用されたと考えられています。

発掘調査の結果、3つの時期で郭内の様子が変わっていたそうです。
1つめは14世紀末から15世紀初頭、
2つめは15世紀中頃、
3つめは16世紀以降です。
この中で、遺物が最も多いのが14世紀末から15世紀初頭のものです。
この時期は、安藤氏が南部氏と争っていました。

1442年に安藤盛季が十三湊を追われ、蝦夷地へ逃れて来ました。
安藤盛季が蝦夷地へ逃れたのは、道南に一族が多くいたためです。
安藤盛季は間もなく没し、子の安藤康季が継ぎます。
安藤康季は津軽奪還のため何度も出陣したものの、1445年に陣中で死去。
志を継いだ子の安藤義季は1453年、南部軍との戦に敗れ自害。
下国安藤氏宗家は断絶しました。

1454年、道南十二館が配置されました。

安藤義季の没後間もなく、南部氏は下国安藤家を再興します。
1438年に捕らえていた潮潟師季に下北半島を与え、安東政季と改名。
安東政季は、安藤義季の祖父・安藤盛季の弟・潮潟通貞の孫です。
母親は南部義政の娘のため、生け捕りにして八戸で育てていました。
安藤宗家を継がせて傀儡にし、蝦夷地を支配する狙いでしたが・・・
安東政季は、間もなく武田信広とともに下北半島を脱出。
蝦夷地へ渡ると、一族配下を道南各地に配置しました。
これが道南十二館で、志苔館には小林良景が配置されました。
小林氏の祖先は、萬里小路藤房に従って津軽に下向したと伝わります。

1457年、コシャマインの乱で攻め落とされました。

1456年、志濃里でアイヌが和人に殺される事件が起きました。
これは、和人の鍛冶屋での小刀をめぐるトラブルが原因でした。
値段の割に粗悪だったため、クレームが発生したそうです。
当時のアイヌは、鉄製品の入手ルートが和人に限られていました。
この件に限らず、和人が日常的にアイヌを虐げていたようで・・・
ブチ切れた渡島半島東部の首領・コシャマインが1457年に挙兵。
呼応したアイヌ達とともに、道南十二館を次々に襲撃しました。
コシャマインの乱では、道南十二館の内10ヵ所が陥落しました。
志苔館も陥落し、城主の小林良景も討死しています。
乱は、蠣崎季繁の娘婿・武田信広がコシャマインを討ち取り終結。
しかし、これを機にアイヌと和人の争いは100年以上続きました。
志苔館は、小林良景の子が戻って来て継いでいます。

1512年に廃城になったと考えられています。

正式な年代は不明ですが、数少ない史料では1512年陥落となっています。
1512年が懐疑的なのは、城主が65年前に討死した城主の子だからです。
さすがに長生きし過ぎじゃね???という感じです。
「子が城主」を信じれば確かに疑問符が付きますが・・・
年代メインで考えれば、65年前に討死した城主の孫かひ孫かもしれません。
当時はアイヌのショヤ・コウジ兄弟が蜂起し、和人と戦っていました。
この中で志苔館が攻められ、城主の小林良定が討死しています。
小林氏は以後蠣崎氏に従って志苔館を去ったため、廃城となりました。

ちなみに、ショヤ・コウジの乱は作り話だった?という説があります。
それは、蠣崎氏による蝦夷地独占の野望を正当化するためだという説です。
蝦夷地は1456年に、安東政季が3人の守護を中心に十二館を配置しました。
3人の守護は安東定季(松前)、安東家季(下国)と蠣崎季繁(上国)です。

安東定季は安藤家惣領・安藤康季の弟です。
没後は子の安東恒季が継ぎますが、性格が横暴だったそうです。
そのため家臣達に訴えられ、1496年に檜山安東家に攻められ自害。
以後、松前は重臣の相原季胤と村上政儀が仕切っていました。

安東家季は初代檜山安東家当主・安東政季の弟です。
1500年頃に没し、その後は孫の下国師季が継いでいました。
下国氏はその後、蠣崎氏に重臣として仕えています。

1513年、ショヤ・コウジ兄弟が松前大館を攻め陥落。
大館を守っていた相原季胤と村上政儀はともに討死しました。
そのショヤ・コウジ兄弟を蠣崎光広が和議と称して謀殺し乱が終結。
すると、蠣崎光広は居城を上国花沢館から松前大館へ移転。
そして檜山安東家に、自分を松前守護にするよう迫ります。
安東尋季は当初拒否しますが、後に蠣崎光広を松前守護としています。
蠣崎氏はもう1人の守護・下国氏を従えており、既に一強状態でした。
その後、独立傾向を強めて豊臣秀吉の時代に独立を果たします。


所在地:北海道函館市志海苔町

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