尻八館/青森市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

尻八館は、連なる山を2つ使った大きな山城です。
訪問日は2018年5月4日です。

尻八館【1】

登城口の山城公園です。
Google Mapでは公園に入る道が描かれていません。
何となく現地に来てみれば、普通に道は続いていますけどw
突き当りが駐車場になっており、ここから徒歩です。
目の前に池と斜面が立ちはだかり行き止まりに見えますが・・・
それも入口を隠す仕掛けなのかもしれません。

尻八館【2】
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駐車場にある案内図です。
図を見れば、岸に沿って進むことがわかります^^

尻八館【3】

岸からまっすぐ斜面を上がった所が陣場です。
広い平坦地が広がっており、四阿や標柱が沢山あります。
何も知らないと、ここが城跡だと勘違いしそうです。

尻八館【4】

尻八館はまだまだこの先にあり、山道が続きます。

尻八館【5】

土橋っぽい所を過ぎると、斜面に人工的な窪みが続きます。
この溝が何の目的で掘られたものなのか???ですが・・・
この溝に沿って山道を進みます。

尻八館【6】

傾斜がだんだんキツクなり、山城らしさが増してきます。
すると、曲がった先が見えない所があります。
これ、虎口ですよね(*´▽`*)

尻八館【7】

振り返るとこんな感じです。

尻八館【8】

ここから先は、小さな平坦面が段々に連なっています。

尻八館【9】

やがて大きな平坦面に至り、説明板と城址碑が迎えてくれます。
ここが尻八館だ(((o(*゚▽゚*)o)))となりそうですが・・・
城址碑の足元に、コッソリと「二の丸」と書かれています。
これが無いと、みんなここでUターンしますよね?
私なら笑顔で下山しそうです。

尻八館【10】

本丸はまだまだ先ということで、さらに奥へと進みます。
道の手前が何となく隠れて見えませんが・・・

尻八館【11】

真横から見ると、こんな風になっているからです。
二の丸の西側は、横堀で囲まれています。

尻八館【12】

尻八館は、イメージ的にはフタコブラクダです。
二の丸から一旦下り、鞍部の先に本丸があります。

尻八館【13】

本丸手前には二重堀切があります。
木が伐採されているので、その様子がとてもよく見えます。

尻八館【14】

堀切の先にあるなだらかな場所が現れます。
削平が甘く緩やかな勾配があるのでまだ先だと思っていましたが・・・

尻八館【15】

ここが本丸です。
二の丸のような城址碑や説明板はありません。

尻八館【16】

本丸の奥は尾根が削られ、細くされています。
これ、地形を利用した土橋ですよね?
城域はここまでですが、裏側にも警戒していたようです。

尻八館【17】

この土橋っぽい所に、ザックリと堀切が入れられています。
ココは土門と呼ばれている場所です。
裏の道がどこまで続いているのかが気になりました。
国土地理院の地図では、稜線を辿り津軽半島の反対側まで続いています。
そちら側にあるのが十三湊なので、非常時の道だったと思われます。


◆歴史◆

充実していた現地説明板の内容をベースに歴史を辿ってみました。
ただし、説明板に書かれている「湖潟」は「潮潟」と思われます。
ググってみましたが、「湖」はほぼ全滅でした( ;∀;)
そこだけは「潮」に置き換えています。

1230年、安藤氏により築かれたとされます。

築城者は書かれていませんが、アイヌのチャシをベースにしたとされます。
説明板にはひとこと、そう書かれているだけです。
時代背景としては、安藤氏が十三湊を乗っ取った時期です。
当時の十三湊を支配していたのが、十三氏です。
十三氏は安藤氏の恩人・白鳥則任の家を継いだ家柄です。
・・・文字だけだと混乱するので、ザックリまとめました。
安藤氏と十三氏
安藤氏と十三氏が争った理由は、蝦夷交易の権益でしょうか・・・?
1229年に安藤貞秀が十三秀直を破り、十三湊を手に入れました。
以後の安藤氏は、十三湊を本拠地とするようになります。
尻八館は、十三湊の東側を備える拠点だったように思われます。

1339年、曾我貞光に攻められました。

曾我貞光は大光寺城を拠点とした、北朝方の武将です。
当時、曾我氏は安藤氏とともに南朝方の南部氏と争っていました。
ただし安藤氏は一枚岩ではなく、上国家と下国家が争っていました。
上国家が北朝方で藤崎城、下国家が南朝方で十三湊を拠点にしたと思われます。
その後の歴史から逆算するとこんな感じ?という程度の推測ですがあせる
上国家と下国家の成り立ちからして、未だによくわかっていません。
ただし、蝦夷に影響力があったのが下国家だというのは確かです。

曾我氏が北朝方になったのは、陸奥国司・北畠氏への反発からでした。
詳しくは省きますが、領地を巡る手違いが遺恨の始まりと考えられています。
一方の安藤氏は、上国家と下国家の争いで南北両派に分かれていたようです。
曾我貞光が津軽半島へ侵攻したのは、上国家との同盟によると思われます。
その後、下国家が上国家を滅ぼしたようで、藤崎城を支配下に置きます。
ちょうど同じ時期を境に、大光寺城の曾我貞光の消息も途絶えます。
その後、下国安藤氏は北朝方に鞍替えし、南部家と争うようになります。

1435年、廃城となりました。

南部義政に攻められ落城したと、説明板には書かれています。
この時に南部家の血を引く政季が生け捕られ、八戸で育てられました。
(「政季」は潮潟師季が傀儡となり改名後の名前です)
これだけだとやっぱり???なので、関係をまとめてみました。
安藤家と南部家

下国家当主・安藤盛季は、娘を南部義政に嫁がせていました。
南部義政もまた、娘を潮潟重季に嫁がせていました。
なぜこんなに婚姻を重ねた両家が争ったのかと???ですが・・・
裏を返せば、和睦するたびに婚姻を繰り返したのかもしれません。
潮潟重季に娘を嫁がせたのは、味方にしようとしたのかもません。
しかし、結果的には潮潟重季を攻め滅ぼすことになりました。

十三湊は1432年に一度、南部軍に攻められ陥落しました。
この時は幕府の仲裁により和睦し、安藤盛季に返還されています。
その後も南部義政は十三湊を攻撃し、1442年に再び陥落。
安藤盛季は翌1443年に蝦夷地へ渡り、子の安藤康季が津軽奪還を試みます。
しかし、安藤康季は1445年に陣没し、孫の安藤義季に引き継がれます。
その安藤義季は1453年に南部軍に敗れて自害し、下国安藤家は滅びました。

南部家は、八戸で育てていた潮潟師季に下国安藤家を継がせました。
しかし津軽には戻さず、下北半島の安藤家の遺領・宇曽利を与えます。
これは、蝦夷地に依然として根を張る安藤一族を懐柔するためでした。
潮潟師季は安東太と号し、安東政季と改名したようです。
ただ、南部家の思惑通りにはならず、宇曽利を脱出し南部家に抵抗します。
その後、秋田湊の安藤惟季に招かれ、出羽・男鹿半島へ移ります。
檜山の葛西氏を滅ぼした安東政季は、以後、津軽奪還のため出兵し続けます。

実在が疑問視されるものの、津軽の藤崎城には安東義景がいました。
この人物は出自不明ですが、安東政季と似た境遇だったのかもしれません。
安東義景は南部家に従い、何度も安東政季の軍勢を退けています。


所在地:青森市後潟字後潟山 GPSログダウンロードページ

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