西城/埼玉県熊谷市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

西城は、田んぼの真ん中に城址碑があるだけの城跡です。
訪問日は2020年8月8日です。

西城【1】

その城址碑です。
田んぼの真ん中を走る道沿いにあります。
なぜ私がココに来たかというと・・・



単にドローンで遊べそう!と思ったからですw
あとは「遺構は何も無い」と言われると、つい探したくなります。
基本的に天邪鬼なので、痕跡見つけてヤル(`・ω・´)な感じです。
結論を書いちゃうと、何も見当たりませんでしたあせる

西城【2】

全く何も無いかと言うと、名残りは今でも残っていそうです。
城址碑のすぐ北には、猿田彦大神を祀る神社があります。
方角的には、本丸の鬼門封じのためにあったと思われます。

西城【5】

神社に注目したのは、北の県道沿いに西城神社があるからです。
偶然見つけたのですが、お城に関係ある?と思い調べました。
西城神社は、出城の東城で祀られていたと思われます。
元々は大天獏社という名前で、明治時代に村社となり改名されました。
西城地域では昔から「郭」と呼ばれる単位で行事が行われているそうです。
この「郭」が複数あり、思った以上に規模は大きかったかもしれません。


◆歴史◆

平安時代に築かれたと考えられています。

築城者は諸説ありますが、時系列では幡羅太郎が一番古い説となります。
幡羅太郎は藤原伊尹の一族で、平安時代に北武蔵の騎西郡に移住しました。

次の築城者候補はその子・藤原助高です。
藤原助高は後に成田郷へ移り、成田氏の祖となります。

次の築城者候補は長井斎藤氏の祖・斎藤実遠です。
前九年の役(1062)の功で、長井庄を与えられました。
長井斎藤氏は一時期大我井に移りますが、戦国時代に戻って来ます。

1480年、太田道灌に攻められ落城しました。

関東管領・上杉家と古河公方が争った享徳の乱末期の1475年。
山内上杉家の前家宰・白井長尾家の長尾景春が謀反を起こしました。
これは、家宰職が総社長尾家に移された事に対する不満によるものでした。
長尾景春は敵対していた古河公方に味方し、背後から上杉軍を攻めました。
こうして始まった長尾景春の乱で、成田氏は長尾景春に味方しました。
この時に大活躍したのが、扇谷上杉家の太田道灌です。
太田道灌は相模や武蔵各地で長尾景春に味方した勢力を撃破。
1478年には成田正等の居城・忍城を包囲します。
翌年和睦が成立し、総社長尾家から迎えた養子に家督を譲ります。
長井斎藤家は成田家の家臣ではありませんが、近所であった大事件です。

1480年、各地を放浪していた長尾景春が、西城に一時立て籠もりました。
そのため太田道灌に攻められ、落城しています。
これにより長井斎藤氏の西城支配は終わり、各地に離散しています。

ただわからないのは、成田家に長井斎藤家の娘が嫁いでいます。
嫁いだのは斎藤実治の娘で、成田親泰の正室となっています。
斎藤実治は16代で、落城時は15代・斎藤利家が当主でした。
成田親泰は、総社長尾家から来た成田顕泰の子です。
成田家と一緒に降伏し、その時に縁組したのかもしれませんが・・・


所在地:埼玉県熊谷市西城

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