須加城/埼玉県行田市 | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

須加城は成田一族・須加氏の城でした。
訪問日は2020年8月8日です。

須加城【1】

須加城の城址碑が、南側の県道59号線沿いにあります。
この中に写っていますが、わかりますでしょうか?

須加城【2】

正解です!
かなり重厚な感じで、有難味が増していますラブラブ
左上には小さく「忍城」の文字が。
須加城は忍城の支城だったと考えられています。

須加城【3】

城址碑の所から奥に入った長光寺・須加小学校一帯が城域のようです。
航空写真で見ると、お寺と小学校一帯が木々で囲まれています。
石灯篭の並ぶ参道と奥に構える山門が、とてもいい雰囲気です。

須加城【4】

お寺の左隣には、須加小学校があります。
正門前から撮っていますが、坂道になっているのがわかります。
小学校は長光寺よりも一段高く、こちらが主郭だったと思われます。

須加城【5】

隣接するグラウンドからは、その段差がよく見えます。


◆歴史◆

須賀氏だけでは動向が?なので、成田氏の動きと絡めて紹介します。

成田一族・須賀氏の城でした。

築城時期は不明ですが、須賀氏の居城だったと考えられます。
須賀氏は須加氏とも表記され、統一されていません。
そのため、城の名前も須賀城と表記されることもあります。

須賀氏が資料に登場するのは、鎌倉時代の『吾妻鏡』です。
1221年6月18日条で、宇治橋合戦(承久の乱)で須賀弥太郎
1238年2月1日条で、将軍の随兵として須賀左衛門太郎が登場します。
本家とされる成田氏は、鎌倉幕府とともに一度滅びます。
須賀氏と最初の成田氏の関係が、いまいちよくわかりませんあせる

1440年、一色伊予守に攻められ焼き払われました。

年代から、結城合戦に関連した戦いがあったと思われます。
一色伊予守は鎌倉公方の一門で、幕府要職に就いた一色氏と同族です。
須賀氏の本家とされる成田氏は、当時は関東管領上杉氏方でした。
一色氏は東の幸手を本拠としており、成田氏を攻めたものと思われます。
幸手城にも行きたい!と思いましたが、幸手駅となり消滅していますあせる

成田氏はその後、享徳の乱(1455-83)の最中に古河公方方に寝返りました。
その際に関東管領上杉氏方の忍氏を滅ぼし、東へ勢力を拡大しています。
しかし、その末期にあった長尾景春の乱で太田道灌に敗北。
山内上杉家家宰・長尾忠景の子・顕泰を養子に迎え、家督を譲ります。

1550年頃、須賀修理大夫が築いたとされます。

『成田記』で御家門・須賀修理大夫が館を築いたと記されています。
その記述から、位置は長光寺・須加小学校辺りと推測されています。

1590年、廃城になったものと思われます。

豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、成田氏長は後北条氏に味方しました。
そのため、石田三成が成田氏の本拠・忍城を水攻めにしています。
後北条氏が敗れた後、成田氏は領地を失って忍城を去っています。
城跡にある長光寺は、1593年に建立されています。
建立したのは沼田の崇山奨和尚で、須加氏とは関係ありません。
そのため、後北条氏・成田氏と運命を共にしたものと思われます。


所在地:埼玉県行田市大字須加

埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示