石川城/青森県弘前市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

石川城は別名「大仏ヶ鼻城」「大渕ヶ鼻城」と呼ばれていました。
訪問日は2018年5月5日です。

石川城【1】

石川城は大仏公園として整備され、ちゃんとした駐車場もあります。
もちろん、無料です合格
着いた瞬間、この城塁に気分アガリましたアップ

石川城【2】

駐車場の端には、立派な城址碑があります。
ここには「大渕ヶ鼻城跡」と彫られています。
お城の名前に関する表記はココだけ。
マイルールでは「大渕ヶ鼻城」で紹介する所です。
ただ、ここは例外として「石川城」として表記します。

石川城【3】

一番下の段はグラウンドになっています。
駐車場寄りの端っこに縄張図が(*´▽`*)

石川城【4】
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縄張は縄張でも公園の縄張図でしたあせる
でも何となくではありますが、曲輪の配置はわかると思います。

石川城【5】

案内図の左脇には、広場の端を上がっていく土塁状の坂があります。
ここからも上がれますが、とりあえず反対側の端へ。

石川城【6】

石川城は、曲輪が段々になっています。
グラウンドの端は、高さ3メートル程の切岸となっています。

石川城【7】

グラウンドの右端から、1つ上の段へ上がる道があります。
ただ、これは往時の道ではないような気が・・・

石川城【8】

先ほどの坂道の脇には、まっすぐ上がる階段もあります。
往時からの道は、反対側の土塁っぽいのとこれでしょうか?

石川城【9】

上から見たグラウンドの上の段です。
そこそこ広いです^^

石川城【10】

階段を上がる時に見えた途中の段です。
居住性ゼロなので、ここに兵を並べて上から迎撃したのでしょうか。

石川城【11】

そして最上段です。
最上段の背後は断崖絶壁。
だんだん高くなってストンと落ちます。
確かに鼻っぽい形をしています^^

石川城【12】

主郭から見た裏側です。
南側の出羽からの道を見張るのに丁度いい感じ。

石川城【13】

フェンス脇には電車を撮るいいポイントっぽい案内がありました。
そう言われるとつい。。。
撮った電車が何なのかは┐(´∀`)┌ですw

石川城【14】

主郭を正面から見て左側には、下まで続く土塁状の坂道があります。
城内の通路はこれ1本っぽいですね。


◆歴史◆

1334年、曾我道性が立て籠もりました。

曾我氏は鎌倉時代、平賀郡の代官として大光寺城を本拠としました。
1333年に鎌倉幕府が滅びると、北条一族が落ち延びて来ました。
(安達高景と名越時如)
この時、一族の反対を押して曾我道性が彼らを匿います。
当然の事ながら、周辺勢力に攻め込まれて大光寺城が翌年1月に落城。
曾我道性らは石川城に立て籠もり、5月頃まで持ちこたえます。
石川城が陥落すると持寄城へ移り、11月まで抵抗を続けました。
しかし、安達高景と名越時如はついに降伏しました。
この戦で曾我本家は滅び、岩館の分家が平賀郡を支配します。

安藤氏時代は???ですあせる

岩館の分家も1380年頃までに南部家により滅ぼされます。
津軽は下国安藤家の支配地となりますが、石川城については?です。
安藤氏は侵攻してきた南部氏と争い、1442年に津軽を追われます。
蝦夷地に逃れた安藤氏は、津軽奪還のため度々津軽に出兵しています。
津軽は南部氏が支配したハズですが、津軽郡代の赴任は1498年です。
津軽郡代・南部康時は堤浦城を築き、堤光康を名乗るようになります。
その弟が大光寺城に入って大光寺氏を名乗り、兄を補佐しています。
石川城のその間の50年はサッパリ???です。

1533年、石川高信が城主となります。

南部安信が、弟の田子高信を津軽郡代に任命。
石川城を居城として石川高信と改名します。
石川城に入ったのは、堤氏と大光寺氏が健在だったからでしょうか。
石川高信は文武に優れ、兄・南部安信の右腕として活躍。
出羽の安東氏を抑え、津軽支配を安定させました。

1571年、大浦為信に攻め落とされました。

石川高信は大光寺光愛、千徳政吉と大浦為信の補佐を受けていました。
その中の大浦為信が石川城に奇襲攻撃を仕掛け落城。
津軽家の記録では、石川高信はこの時に自害したとされます。
これに対して南部家側では、1581年に病死したとしています。
周辺の出来事に照らし合わせると、津軽家側に分があるように思われます。
石川城は、この時活躍した板垣将兼が入り守将に任命されています。
板垣将兼は出自不詳で、甲斐から来たという説もある人物です。

1600年、板垣将兼が謀反を起こしました。

関ヶ原の戦で津軽為信は東軍につき、美濃へ出陣しました。
その留守を守っていた板垣将兼が、尾崎喜蔵、多田玄蕃とともに挙兵。
津軽為信の居城・堀越城を武力制圧しました。
しかし、関ヶ原で東軍が圧勝すると、板垣将兼らは戦意喪失。
津軽為信の家臣・金信則が総攻撃を仕掛け、板垣将兼を討ち取ります。

1611年、廃城となりました。

津軽藩の新たな拠点として、弘前城が築かれました。
弘前城は、津軽為信が1603年に築城を開始しました。
しかし、1604年に津軽為信が没したため、築城は一時中断。
御家騒動もあり、築城再開は2代目藩主が確定した1609年でした。
尚、この御家騒動で金信則は粛清され切腹しています。
弘前城の築城には、石川城や大光寺城が部材として利用されています。
そのため、弘前城の完成とともに、石川城は廃城となりました。


所在地:青森県弘前市大字石川字大仏 GPSログダウンロードページ

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