安倍館/岩手県盛岡市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

安部館は近年付けられた名前で、戦国時代は厨川城でした。
訪問日は2017年8月7日です。

安部館【1】

安部館は、盛岡市の国道4号線沿いにあります。

安部館【2】

国道に沿って、堀の跡が残っています。
名残はあるものの、道沿いでは完全に埋められています。

安部館【3】

道端に安部館遺跡についての説明板があります。

安部館【4】

説明板に載っている図です。
地図が広い範囲で描かれているのは、訳アリっぽい感じがします。
説明板ではカッコして(厨川柵跡・厨川城跡)と書かれています。
以前は安部館が厨川柵だったと考えられていましたが・・・
現在ではその支城・嫗戸柵(うばとのさく)だったという説が有力です。
厨川柵は現在でも位置が定まらず、もう少し南西だったと考えられています。
図の中では、右斜め下の天昌寺の辺りがその中心です。
破線内には嫗戸柵と大館町遺跡が含まれ、全体が厨川柵という考え方です。
そういう事が頭にあって見ればこの図の通りなのですが・・・
そうでなければ、安部館=厨川柵と捉えられかねない表現方法です。
一緒に書かれている厨川城は、ココに実在した戦国時代のお城です。

安部館【5】

国道沿いにある案内から入る道です。
城内はこんな感じで、普通に住宅街となっています。

安部館【6】

一番奥には厨川八幡宮があり、その前の空き地に車を停められます。

安部館【7】

連なる曲輪を隔てる堀が残っています。
本丸の北側の堀が最も規模が大きく、見応えがありますラブラブ

安部館【8】

部分的に水が張っており、水堀だったことがわかります。

安部館【9】

ただ、国道に近づくにつれ次第に浅くなっています。
本当は全部埋めようとして、途中でやめたのでしょうか?

安部館【10】

本丸の堀は、南側も残っています。
国道側から見るとこんな感じです。
北側の堀に比べると浅いですが、規模が大きかった事はわかります。

安部館【11】

こちらは本丸の隣の中館で、一番奥に貞任宗任神社があります。

安部館【12】

ここで一番目立つのは安部館公民館ですがw

安部館【13】

公民館の裏、中館の南側にも堀跡が残っています。
これはこれで、市街地にあるものとしては立派な規模です。

安部館【14】

安部館は、国道の反対側にも続いていた。。。?
という情報もあったので、そっちも見てきました。
見てきたのは、国道から1本西側にある道沿いです。
こちらも普通の住宅街で、遺構はあまり期待出来なさそうな感じ。
最後の希望を捨てきれず、奥の木が茂っている所に行きました。

安部館【15】

その木が茂っている所です。
道端が高くなっており、もしかしたら堀跡?な感じはします。
真偽の程は???ですが・・・


◆歴史◆

安部家の嫗戸柵がありました。

嫗戸柵(うばとのさく)は、厨川柵の支城的な役割を果たしていました。
厨川柵は安部貞任の拠点で、1062年の前九年の役で陥落しています。
その後使われたのかどうかが?です。

工藤行光が厨川周辺の地頭となりました。

工藤氏は伊豆出身で、1189年西岩手郡三十三郷の地頭となりました。
伊豆の工藤氏ということで、日向で栄えた伊東氏と同族です。
下向した工藤行光は、領地から厨川小次郎と名乗りました。
当初は別の場所に館を築いていたとされます。
のちに厨川城を築き居城としましたが、その時期は?ですあせる

1590年頃から南部家臣となりました。

厨川氏は、1590年頃から南部家に仕えたとされます。
この時期という事は、元々は高水寺斯波家に仕えていたのかもしれません。
岩手郡周辺では1540年頃、斯波家と南部家が争い斯波家が勝ちました。
斯波家は雫石と猪去に次男と三男を配置し、南部家に備えました。
雫石が南西で、猪去がかなり北なので、勢力圏にスッポリ入ってます。
しかし、1588年に斯波家が南部家に敗れて領地を失いました。
南部軍が高水寺城を攻めた際、多くの斯波家臣が南部家に寝返りました。
地理的にも時期的にもこの時なのかな?と思います。

1615年、廃城となりました。

盛岡城が完成したこの年、一国一城令が発令されました。
盛岡城のすぐ近くにあった厨川城も、この時に廃城となりました。
城主の厨川氏は頑強に抵抗し、籠城していますが敗れています。
一時浪人になりましたがその後帰参し、盛岡藩士として続いています。


所在地:岩手県盛岡市安倍館町(厨川八幡宮)

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