訪問日は22017年8月7日です。

城跡の南を流れる川に架かっている橋です。
普通の橋に見えますが、案内図で描かれている大橋跡にあります。

大橋が架かっていた南側の川です。
この川が外側の水堀の役割を果たしていました。

橋を渡ると、すぐに大堀跡の標示があります。
図を見るとわかるのですが、大手門前は二重堀っぽくなっています。

大堀のすぐ先が大手門跡です。
こんな感じで、要所要所に標示があります。
大手門跡は、これが無いとわかりません。

大手門跡から見た城跡です。
とはいえ、城塁の下の平地が二の丸跡です。
際の植え込みが、柵っぽくていい感じです


ここはとてもよく整備されていて、形がわかりやすいです。
下から見上げると、帯曲輪の段差がクッキリ見えます。

城内の道を進むと、要所要所に腰曲輪があります。
中は広いですが、入口は狭くなっています。

本丸へ向かう途中の曲輪も、入口が狭くなっています。
ここには詰御門跡の標示があります。
切岸と切岸に挟まれた細い通路が数メートル続きます。
上に曲輪があるので、上から狙い撃ちにされます。

そんな感じで上って行き、最後の門が本丸門です。
ここは上りながらの虎口となっています。

本丸門脇から見た本丸です。
本丸に入ると、真正面に城址碑が迎えてくれます。
奥には説明板などがあるとても広い曲輪です。

せっかくなのでの城址碑です。
ツルピカなので、撮る角度に気を付けないと文字が写りません。

本丸の奥から見たところです。
説明板の後ろにある縦長の石碑は、武彦神社跡と彫られていました。
これ程しっかり遺構が残っているのは、神社があったからかもしれません。

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説明板に載っている図です。
水堀は東半分だけで、南側は二重堀のようになっています。
図の範囲外ですが、西側にも南北に流れる川があります。
仙台藩領が南部藩をとても警戒していたことが伺える構造です。
◆歴史◆
安部貞任が築いたとする伝承があります
名前の由来が、築城の際に牛を生贄にしたとする伝承があります。
この築城者が安部貞任ですが、どうなんでしょう?
北上する上方軍を止める(または監視する)ためならアリでしょうか。
口内氏により戦国時代に築かれたとされます
口内氏は、江刺家当主の養子・口内重俊です。
築城時期は天正年間(1573~93年の間)とされます。
この時期の江刺家はゴタゴタ続きで、当主すらよくわかっていません。
1582年、江刺三河守が葛西晴信に背き、勘当されています。
この時期にあったのが、九戸政実による葛西領への侵攻です。
戦の勝敗は諸兄のサイトにより真逆なのですが・・・
その後の状況から、葛西側が勝利したように思われます。
以後の江刺家当主は、江刺兵庫頭となります。
三河守は江刺信時、兵庫頭は江刺重恒ですが、同一人物説もあります

奥州仕置き後、三河守は大崎葛西一揆で佐沼城に籠城しています。
一方、江刺兵庫頭は南部家に仕官しています。
たぶん別人でしょうねw
当時の江刺家は、南部家の文書で「江刺再乱」と書かれています。
名目上は葛西家臣でありながら、非常に緊迫した状態でした。
口内重俊は通字から、兵庫頭の後を継いだ人物と考えられます。
奥州仕置き後は主家再興ではなく、南部家に仕えています。
1591年の九戸政実の乱では南部軍として参戦し、戦死しています。
その後は口内重俊の実弟・江刺重隆が家を継いでいます。
1591年、伊達家の城となりました
大崎葛西一揆の後、葛西領は伊達領となりました。
御一家の瀬上景純が城主となります。
南部藩との境を守るため、その後も伊達一族が城主となります。
一国一城令後も上口内要害として残り、脇街道の守りを固めました。
城下町には侍屋敷が80軒、足軽屋敷が100軒あったそうです。
1697年には足軽20名が追加され、飛び地に屋敷を構えています。
上口内要害は、明治時代まで存続しました。
所在地:岩手県北上市口内町松坂 GPSログダウンロードページ
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