砥石城/長野県上田市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

砥石城は、若き武田信玄が当たって砕けた有名な山城です。
訪問日は2018年4月29日です。

砥石城【1】

夏休みに長野県内を回ったっきり、超山城なため行ってなかった所です。
こんな感じの所がまだまだ全国に沢山あると思います。
続日本100名城のスタンプ狩りという名目が出来て、ようやく訪ねました。
・・・あれからもうすぐ2年ですが、書くのを忘れていましたあせる
超有名所という事で、登城路は真夏に登れそうな位に整備されています。

砥石城【2】
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駐車場には、ザックリ(=頭に入りやすい)案内図があります。
「砥石城」は実は、複数の山城をまとめた総称です。
超有名なお城なのに、訪ねるまでそんな事も知りませんでしたあせる
櫓門から米山城、砥石城、本城、枡形城をまとめて見られます
私がココから登ったのには、ちゃんと理由があったのです(`・ω・´)
・・・後付けですが

砥石城【3】
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駐車場には、もう1枚同じような案内図があります。
内容は一緒ですが、もうちょっと詳しいです。
ココを極めようとしたら、1日では足りません。

砥石城【4】

さて、さっそくですが登城開始です。
駐車場からサクッと上がった所に、こんな門がありますラブラブ
長野では、こういう雰囲気の門をよく見たような気がします。

砥石城【5】

砥石城というと「超険しい山城」というイメージがありました。
だからこそ、真夏の訪問は避けたのですが・・・
実際に歩いてみると、こんな感じの所が多いです。
見た目は楽そうに見えますが、私は真っすぐな山道が苦手です。
苦しい状況で先が見えるのは、ある意味精神的に堪えます。

砥石城【6】

登城口から7分程で、左側に山の頂上が見えてきました。
これが、案内図で登城路の左に描かれていた米山城です。
あの頂上に立ち寄るのか・・・と、いちいちダメージを受けましたw

砥石城【7】

さらに3分進んだ所で道が分岐します。
まずは「砥石城」を構成するお城の1つ、米山城へ向かいます。

砥石城【8】

分岐した先でも、大まかには真っすぐな山道が続きました。
途中でゆるやかコースと険しいコースに分かれ、私は前者から進みました。
山城は大好きですが、苦しい山登りは大キライ。
出来うる限り、ラクして登りたいですからね。
ただ、ゆるやかコースでも、所々にこんな感じの所があります。
色々と妄想を掻き立てられるようになると、城キチは息を吹き返します^^

砥石城【9】

分岐から5分程で、平らに開けた所に出ます。
ここが米山城です。
1つの山城ですが、堀や土塁、虎口は見当たりませんでした。
いきなり平らな芝生に石碑が現れ、少しばかり拍子抜けしました。

砥石城【10】

石碑には「村上義清公之碑」と彫られています。
村上義清が依った「砥石城」がココだったという事でしょうか。

砥石城【11】
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米山城の東屋脇に、砥石城との位置関係を示す図があります。
こうして見ると、独立した城でなく、砥石城の出城だった事がわかります。

砥石城【12】

さぁ、先へ進もうと振り返ると、段々になっている事に気づきました。
「何も無かった」なんて書きましたが、上から見たらそうでもありません。
緩やかではありますが、曲輪が段差で区画されていた様子が見えました^^

砥石城【13】

米山城へはゆるやかコースで登って来ました。
なので、元の登城路へ戻る下りは、険しい方を歩きました。
ずっとこんな感じで、その名の通り険しい山道でした。
事前に抱いていた砥石城の登城路は、こんなイメージでした。

砥石城【14】

先ほどの分岐に戻り、次の砥石城を目指します。
すると、ここからは丸太階段地獄が待っていました。
階段山道はよく整備されているように見えますが、これも私は苦手です。
階段では、強制的に膝を上げざるを得ませんからね・・・

砥石城【15】

階段地獄を登ること約5分で、それっぽい岩が現れました(*´▽`*)
いかにも門っぽいこの構え、やっと2つ目の城跡に着いた(*´▽`*)
・・・と思いました。

砥石城【16】

門・・・もどきの先には、こんな光景が待っていました。
それまでよりも、輪を掛けて傾斜のキツイ階段が待っていましたあせる

砥石城【17】

分岐から階段地獄を登ること約10分で、またしても思わせブリな光景です。
階段道の先に、平坦面があるように思わせるこの光景。
確かに平坦面がありそうですが、と、ちょっと懐疑的になっていました。

砥石城【18】

疑心暗鬼に囚われ、期待せずに登った所が2つ目の砥石城でした。
ここが、山城群の総称となった所です。
その割に、単発の砥石城はこれだけです。

砥石城【19】

眺めはとても良いですけどラブラブラブラブラブラブ

砥石城【20】

さらに奥へ進もうとすると、案内がちょっと変。
色んなモノが無理な体勢でひしめいています。
まぁでもこっちか、で進むと・・・

砥石城【21】

目の前が大きく窪んでいますラブラブ

砥石城【38】

本城側から砥石城を振り返って見た所です。
こちら側は、2条の大きな堀切で絶たれています。
切岸は鋭く、本城側からの侵攻を防ぐ向きに見えます。
・・・村上さんの仕業でしょうか?

砥石城【23】

堀切を過ぎてすぐに、段々の曲輪が見えて来ました。
手前に文字の書かれた板が見えますが、これは大手口のものです。
砥石城の堀切からたった3分で、本城の入口に着きました。

砥石城【24】

米山城も砥石城も見張り台のような感じでした。
しかし、本城はここから段になった曲輪が続きます。

砥石城【25】

階段のように連なる曲輪が続きますが、まだまだ上に段が見えます。

砥石城【26】

えー、まだ続くの?と思っていると、白い標示板が2つある段が現れました。
もしかして?!と、ちょっとだけ元気が湧いてきました。

砥石城【27】

左側の白い標示は、石垣のものでした。
言われなくてもわかるレベルの石垣が、ちょこちょこと残っていますラブラブ
ここは他よりも守りが厳重だったようです。
そして、もう1つの標示には「本城跡」と書かれています。

砥石城【28】

さすが「本城」だけあって、かなりの広さです。
「本城」は真田氏時代の主郭とされます。
村上氏時代のココがどうだったのか、かなり気になります。

砥石城【29】

奥へ進むと、再び段差があります。

砥石城【30】

ここでも奥側に堀切があります。
しかもこの向きは、こっち側に来て欲しくない感じです。

砥石城【31】

先から振り返るとこんな感じです。
ココで足止めするゾ(`・ω・´)という雰囲気が伝わります。

砥石城【32】

ただし、奥の枡形城の方が標高は高く、再び登り坂が続きます。

砥石城【33】

まっすぐ登ること3分で、ちょっと切り立った所が現れます。
まだまだ続くんだろなぁなんて、期待し過ぎない自分が現れます。
今までどんだけヌカヨロコビして来たんだか、という位ひねくれてますw

砥石城【34】

上がってみたら、白い標示と説明板のある曲輪がありました。
ここが砥石城の一番奥にある枡形城です。
名前の由来は、先ほどひねくれた所が枡形になっている事だそうです。

砥石城【35】

先端部は小さな堀切で区切られています。
そこに何やら案内が。

砥石城【36】

そこには、ここから何が見えるのか描かれています。
その中心に描かれているのが、真田氏本城です。
ココからだと、真田氏の本拠が丸見えだったんですね!

砥石城【37】

せっかくなので、その眺めです。
真ん中の芝生っぽい小高い丘が、真田氏本城でしょうか。
真田氏がココを死守したかった理由がよくわかる眺めです。


◆歴史◆

築城年代は不明です。

歴史に登場するのは1541年です。
1541年5月、海野平の戦で滋野一族が敗れました。
戦った相手は武田・村上・諏訪連合軍です。
これだけの相手と戦っただけでも凄いです。
敗れた海野棟綱・真田幸綱は、縁者を頼って上野国へ逃れました。
その後、村上義清が砥石城を整備しています。
という事で、それ以前からあったという事です。
村上義清は重要拠点に位置付け、重臣を城代に据えました。

1550年8月、武田軍を撃退しました。

武田信虎が追放され、武田晴信は村上義清と敵対しました。
その武田晴信は、2年前に村上義清に大敗していました。
その直後に小笠原氏から松本平を奪って勢力を拡大。
満を持して村上義清にリベンジを挑みました。
この時に武田軍が攻めたのが砥石城でした。
しかし、砥石崩れと呼ばれる大敗を喫し、多くの主力を失いました。
普通ならここで大崩れして滅亡へ向かうのですが・・・

1551年5月、真田幸隆が陥落させました。

上野国へ逃れていた真田幸隆が、砥石城を「乗取」ました。
真田幸隆の動向は不明ですが、この頃から武田家に仕えています。
史料に「乗取」と書かれている事から、調略で内部崩壊させたようです。
真田幸隆は、この時の活躍により武田晴信から旧領を与えられました。
武田晴信は真田幸隆に砥石城の改修を命じます。
そして2年後の1553年、ついに村上義清を越後へと追いやりました。
以後の真田氏は、北東の上野国吾妻郡へと版図を拡げて行きます。

1600年、真田信之に攻められました。

1582年の武田家滅亡後、真田昌幸は権謀術数を駆使し生き残りました。
その結果、どちらかというと徳川家康寄りな姿勢で落ち着きました。
しかし、天下分け目となった関ヶ原の戦で、反徳川の姿勢を露わにします。
この時、本多忠勝の娘を娶っていた嫡男・真田信幸が徳川方となります。
そのため、真田家は親子で戦うことになりました。
この時に、真田信幸は真田信之と名を改めました。
真田昌幸は、築いたばかりの上田城に籠り徳川秀忠に頑強に抵抗します。
徳川秀忠は時間を浪費する中、真田信之に砥石城攻めを命じます。
砥石城を守っていた弟の真田信繁は、抵抗せず城を明け渡しています。
しかし、真田昌幸は上田城で抵抗する姿勢を崩さず。
徳川家康が徳川秀忠に「早く来い!」と催促したのが一週間後でした。

関ヶ原での本戦の後、真田昌幸は高野山へ流罪となりました。
上田は真田信之が継ぎましたが、上田城は破却されました。
砥石城がどうなったのかは、以後の歴史に登場せず不明です。
遅くともその15年後の一国一城令までには廃城になったと思われます。


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