檜山城/秋田県能代市 | なぽのブログ
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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

檜山城は安東家宗家の本拠地でした。
訪問日は2018年4月14日です。

檜山城【1】

檜山城は有名なお城なので、ちゃんと案内があります合格

檜山城【2】

舗装道を進むと、大きな駐車場があります。
ただ、このまま進んでも車を停められます。

檜山城【25】

駐車場から進む道は、既に城域内に入っています。
道の左側には細長い曲輪が連なり、その境目に大きな堀切がありますラブラブ

檜山城【3】

駐車場からさらに上がった所にも車を停められます。
それが三の丸です。
ただ、入口が2つの切株の間を通るのでちょっと狭いです。
こすらないよう注意して下さい。

檜山城【4】

そのまま奥へ進むと、説明板と櫓台があります。

檜山城【5】

櫓台の上に石碑があり、城址碑かと思って先端部まで来ました。
この石碑は城址碑ではありませんでしたが、眺めはとても良いです。

檜山城【6】

三の丸の駐車場から出てすぐに二の丸があります。
かなり広い平坦地で、桜の木が沢山植えられています。

檜山城【7】

二の丸から、コンクリート階段が高い所に向かって伸びています。

檜山城【8】

その先は土橋になっており、大きな曲輪につながっています。

檜山城【9】

もう本丸ですw

檜山城【10】

ただ、ここの見所は本丸の先にあります。
二の丸と本丸の境目からは、広い平坦地と土塁が見えます。

檜山城【11】

歩いた跡を辿ると、本丸脇の細い所を通ります。
道の右側には土塁があり、その上に曲輪があります。
曲輪と曲輪で道を挟んだ虎口のような感じになっています。

檜山城【12】

その先は、本丸の切岸に沿って細い道が奥へと続きます。

檜山城【13】

崖っぷちっぽい所を過ぎると、今度は広い土橋っぽい所があります。
ここからも、奥に曲輪とその土塁が見えます。

檜山城【14】

道は土塁の端を回り込むように、土塁と挟まれた狭い所を通ります。
城キチ用語では「虎口」と呼ばれる構造ですw

檜山城【15】

虎口も大好きなので、虎口からの風景も載せました。
虎口から先はいったん低くなり、その先に細い道が続いています。

檜山城【17】

そのいったん低くなっている所が空堀ですラブラブ
城内も入ってすぐ本丸でしたが、本当はこっちから入るっぽい感じです。

檜山城【18】

空堀の向こう側にも曲輪があり、凸凹になっています。
この凸凹は、侵入して来た敵の動きを鈍らせるためでしょうか?

檜山城【19】

その先に、ちょっと小高い所があります。

檜山城【20】

これは将軍塚と呼ばれる古墳です。
城内では曲輪として利用されていたそうです。

檜山城【21】

城域はさらに奥へと続きます。
さすが、北出羽の雄・安東氏の本拠だけあって、とても広いです。
将軍塚の奥に広がるこの平坦地が居館の跡とされています。

檜山城【22】

平坦地の奥に、最後の高まりがあります。
櫓台のように見えます。

檜山城【23】

これは館神堂と呼ばれる、土塁で囲まれた空間があります。
安東愛季が築いた脇本城にも、同じような空間があります。
名前からすると、お城によくあるお社があったようです。
お社っぽい感じですが、道はここを回り込む感じになっています。
道はこの先にも続いており、防衛拠点でもあったようです。


◆歴史◆

檜山安東家の本拠地でした。

安藤家は、元々は津軽の十三湊を本拠としていました。
安「藤」家から安「東」家へと表記が変わった時期は明確ではありません。
南北朝時代に安藤盛季が弟・鹿季に秋田郡を与え分家となりました。
以後、安藤盛季の宗家が下国家、安藤鹿季の分家が上国家となります。

安東家相関図

宗家2代目の安藤康季は、1432年に南部家との争いに敗れました。
一度は和睦したものの、1442年に再び敗れて蝦夷地へ移りました。
その後、津軽奪還を図るも失敗し、南部軍に敗れて宗家は断絶。
南部家は、分家出身の安藤師季(=政季)に下国家を継がせました。
しかし、安藤政季は傀儡とはならず、1454年に南部家と争い敗れました。
安藤政季は蝦夷地の娘婿・蠣崎季繁の元に移りました。
その後、上国家は下国家の安東政季を小鹿島(男鹿半島)に招きました。
安東政季は檜山郡の葛西秀清を滅ぼし、新たな城を築き始めます。
これが檜山城で、以後はココを本拠として津軽奪還の戦を続けました。
この軍役の負担が重くのしかかり、上国家との関係が悪化しました。

檜山安東家と湊安東家が争うようになります。

檜山安東家の安東政季・忠季父子は、津軽への出兵を繰り返しました。
この軍役の負担に不満を持った湊安東家は、反発するようになります。

1544年、第一次湊騒動

安東友季が、叔父の脇本城主・安東修季とともに挙兵しました。
詳細は不詳ですが、この戦に敗れた安東友季は没したとされます。
出家していた安東定季が還俗し、安東堯季と改名して復帰しています。

1570年、第二次湊騒動

安東堯季が没すると、安東愛季が弟・安東茂季に湊安東家を継がせました。
安東愛季は弟を傀儡とすることで、檜山・湊の両家を統一しました。
この時、秋田市南部の豊島地方の交易を制限しました。
反発した豊島玄蕃が謀反を起こし、2年に及ぶ戦の末鎮圧しました。
安東愛季はその余勢を駆って、由利郡にまで勢力圏を拡大しました。
領主としての自信を失った安東茂季は、湊城を退いて豊島館へ移りました。

1589年、第三次湊騒動

1587年、安東愛季が戸沢盛安との戦の最中の陣中で没しました。
強烈なカリスマの死は、均衡を保っていた両家のバランスを崩しました。
湊安東家の安東通季が、勢力回復を図るため謀反を起こしました。
安東通季は戸沢氏や小野寺氏、南部氏を味方に付けました。
圧倒的兵力に押され、安東実季は檜山城に撤退し約5か月にわたり籠城。
包囲する湊安東方の兵力は籠城側の10倍以上あり、圧倒的優勢でした。
しかし、安東実季は大浦為信や由利衆を味方に付け包囲軍を撃退しました。
敗れた安東通季は陸奥へ逃れ、南部家臣となりました。
勝利した安東実季は湊城に移り、名を秋田実季に改名しました。
これは惣無事令に反したため、かなりの領地を没収されました。
しかし、太閤蔵入地となった領地の支配は秋田実季に任されています。

1602年、佐竹家の城になりました。

関ヶ原の戦で様子見で終わった佐竹家が、大減封され秋田に移されました。
そのため、秋田実季らの領主達が入れ替わりで常陸へ移されています。
檜山城は佐竹家臣・小場義成、後に多賀谷宣家が城主となります。
一国一城令により1620年に廃城となりました。
多賀谷氏は檜山城の麓に館を構え、明治に至るまで檜山の地を治めました。


所在地:秋田県能代市檜山霧山 GPSログダウンロードページ

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