小門牟礼城/大分県国東市 | なぽのブログ
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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

小門牟礼城は小門山山頂にあり、雄渡牟礼城とも表記されました。
訪問日は2020年1月12日です。

小門牟礼城【1】

城跡へは、林道を通って車で登山口まで行くことが出来ます。
林道の入口は「金湧」バス停の脇にあります。
・・・いい地名です恋の矢

小門牟礼城【2】

そのまま細い林道を道なりに進み、1回目のY字の所では左へ進みます。
右へ進んだ私は、かなりの距離をバックで戻りましたあせる
2回目のY字の所では、左側に登山口の案内があります。
その案内を信じて進むと、こんな場所に出ます。
今はまだただの更地ですが、おそらくソーラー発電所になると思われます。
Y字の右へ進んで林道の終点まで行っても、登山道には行けるようです。

小門牟礼城【3】

案内に従い山中へ入ると、立派な案内があります。
気合入ってるなぁ!と、矢印の方向へ登ります。

小門牟礼城【4】

最初の尾根に登ると、しばらくは水平に進みます。
その先でまた右の尾根に登り、そこから先は急斜面の九十九折れです。

小門牟礼城【5】

折れる所には「あと〇まがり」とあり、少しだけ励みになります。
折れる所にこの案内が無いと、そのまま真っすぐ進んでしまいそうです。
折れる度に真っすぐと斜め手前の分岐があるからです。
ただ「あと〇まがり」は、案内が無い所も数か所あります。

小門牟礼城【6】

「あと1まがり」の先で最後の折れを曲がると、真っすぐ直登になります。
先が見えると人間、遠回りなんてしてられませんものねw

小門牟礼城【7】

最初の放送施設の近くまで来ると、足元が石だらけになります。
目の前の放送施設は腰曲輪のようで、まだ斜面の途中です。

小門牟礼城【8】

岩っぽい山道ではなかったので、足元の石は遺構のようです。
こんな感じにジグザグに並んでおり、進路を限定するような感じです。
ここまでで大分息を切らしているので、飛び越えて直進は出来ません。
そんな敵を、真正面の曲輪から狙い撃ちにしたのでしょうか。

小門牟礼城【9】

ここからもうちょっとだけ登ります。
そのためのロープが写っていますあせる

小門牟礼城【10】

最後のひと息を登ると、大きなアンテナが見えてきました。
上の段が主郭で、下の段が帯曲輪です。
斜面には石がゴロゴロしていますが、明確に組まれたものはありません。
ここには虎口らしい形跡はなく、そのまま斜面から上がる感じです。

小門牟礼城【11】

帯曲輪に上がってからは、ここでは時計回りに見てきました。
すると、上がって左へ進んですぐに、少し下の方にこれが見えました。
端に石がゴロゴロしていて、直角に曲がるこの感じは虎口ですね!
往時の登城路は、登って来たのとは別の所にあったようです。

小門牟礼城【12】

南側の帯曲輪です。
東半分は草が無いのですが、西側はちょっと荒れた感じです。

小門牟礼城【13】

南東側に斜めに上がる所があり、この上が主郭です。
主郭には、大きなアンテナとそれに付随する建物があります。
東端の主郭が一番高い所にあり、隣の曲輪とは段差があります。

小門牟礼城【14】

西側を見ると、こんな感じで段々に曲輪が連なっています。
ここは山のテッペンなので堀切は無いですが・・・
連郭式の曲輪群を帯曲輪で囲む所が、高崎城や屋山城と似ています。

小門牟礼城【15】

西の端っこから主郭側を見た所です。
緩い傾斜に段差を付けることで削平しています。
これだけ広いと、守る兵も相当な人数が必要ですね。

小門牟礼城【16】

西側の外縁です。
小門牟礼城では、土塁が見られませんでした。
すぐ下にちょっとだけ段差があり、あとは急斜面となっています。

小門牟礼城【17】

時計回りに歩いて、北側にも南側程でないにしろ帯曲輪があります。
アンテナのフェンスの東側に、石碑と説明板がありました。

小門牟礼城【18】

石碑の周りには、少しだけ石垣があります。
往時のものかもしれませんが、そうじゃないかもしれません。
他の所に石垣が残っていれば、ここも!となるのですが。

小門牟礼城【19】

石碑は何かの戦死者の慰霊碑、だったような気がします。
現地では読めたのですが、写真を拡大しても読めませんでしたあせる

小門牟礼城【20】

最後に説明板です。
お城の構造から歴史まで、かなり詳しく書かれています合格

小門牟礼城【21】
拡大表示

図の数字は、説明板の文章の中に書かれています。
①~④が曲輪、⑤が帯曲輪、⑥~⑨が竪堀です。
⑥~⑧は見ていませんでしたが、⑨は通ったハズ。
もしかしたら、虎口だと思っていた所かもしれませんあせる


◆歴史◆

文献の初出は1495年です。

雄渡牟礼城と記され、田原氏の要塞だったとされます。
田原氏は大友家の庶流の中で、最も力が大きかったそうです。
その田原氏の歴史は、宗家への反抗の繰り返しでした。
田原親宗は、大友家の家督争いに絡みました。
大友政親の兄の子・宗心に従い、大友政親・義右父子の争いを煽りました。
・・・みんな大友さんなので、相関図作りましたあせる
小門牟礼城【相関図】

そして、大内家を通じて、足利将軍家を大友家討伐に誘導しました。
そのため1494年、田原親宗は大友政親に討伐され戦死しています。
父親の戦死により家督を継いだのが、田原親述でした。
小門牟礼城が文献に登場した時の田原家は、そんな時期でした。

1501年、田原親述が立て籠もりました。

説明板にはこう書かれていましたが、直接何があったのかは?です。
周辺の状況としては、大内義興が大きく関わっていると思われます。
大内義興は周防・長門から肥前まで7ヶ国の守護を務める大大名です。
1500年に諸国を流浪していた前将軍・足利義尹が山口に来ました。
大内義興が足利義尹を奉じて上洛をしようとし、現将軍が反発。
天皇を動かし、1501年に大内義興討伐の綸旨が出されました。
大友親治は少弐資元と連携し、北九州の大内領を攻めています。
この年に攻められたとすれば、大内家寄りだったのが理由だと思います。
田原家を警戒する大友宗家が、どさくさに紛れて攻めたのかもしれません。

1580年、田原親家が拠点としました。

この頃の田原家では、田原親述の子・田原親宏が当主でした。
1534年には大内軍撃退で功を挙げましたが、1543年に追放されています。
その後、1552年に大友宗麟に呼び戻され豊後に復帰。
以後は大友家の主要な戦に参戦し、大活躍しました。
しかし、大友宗麟は田原親宏の実力を恐れ、冷遇するばかりでした。
そんな田原親宏には、家督を継ぐ男子が居ませんでした。
・・・今度は田原さんだらけになるので、相関図書きますあせる

小門牟礼城【田原家】

大友宗麟の側近・田原親賢は、大友親家に田原宗家に継がせようとします。
田原親賢の武蔵田原家は、田原親宏の5代前に分かれた分家です。
大友宗麟の正室・奈多夫人の兄or弟で、側近中の側近でした。

1579年、田原親宏は田原親賢に奪われた領地の返還と養子話の破談を要求。
一度は要求が認められましたが、田原親宏は挙兵しました。
しかし、府中への出撃直前に急死しました。

家督は娘婿の田原親貫が継ぎ、毛利家や香月家の支援を取り付けます。
そして、田原軍は佐野鞍懸城と安岐城に立て籠もりました。
大友宗麟は自ら軍を率いて、田原親貫討伐に向かいます。
この時、次男の大友親家が拠点にしたのが小門牟礼城でした。
大友軍は、海上から安岐城への物資搬入をしていた毛利軍を撃退。
先に安岐城が陥落しました。
続いて、孤立無援となった佐野鞍懸城を包囲して落城させました。
田原親貫は消息不明となり、大友親家が田原家を継ぐこととなります。
その後の小門牟礼城は???です。

田原親家はその後、兄・大友義統のもとで加判衆を務めます。
しかし1586年に島津軍が侵攻すると、不仲の兄を裏切って寝返ります。
戦後、大友義統は田原親家を殺そうとしますが、大友宗麟が許さず。
役職の剥奪と領地の没収で済まされ、身柄は臼杵の父が預かりました。
その後、1591年に再び加判衆に任命され、朝鮮出兵にも出陣しています。
大友家改易後は熊本藩の細川家に仕え、利根川道孝と名乗りました。
子孫は松野姓に改姓し、熊本藩士として続きました。


所在地:大分県国東市国東町成仏 GPSログダウンロードページ

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