訪問日は2020年1月12日です。

「鞍懸城」はこの地域では奥畑と佐野の2つがあったそうです。
そのため、両者を区別するため頭に「佐野」をくっつけています。
城跡へは、路肩が広い所から入る道から行けます。
その突き当りがココで、お墓参り用に駐車出来るようになっています。

すぐ近くに山中へ入って行く道がありますが、ココはNGです。
私はここから登り、1つ北の山中を彷徨いました


城跡へ行くわかりやすい入口は、林道を少し戻ったココです。
道から奥へ、長い横堀が続いています。

横堀は、100メートル程奥へ進むと倒れた竹で覆われています。
右側に石が並んだ所があり、ちょっと居館跡っぽい所があります。
そこから山中へ入ってまっすぐ登ります。

ルートとしてはわかりやすいですが、ちょっと竹が多いです。
とりあえず、高みを目指してまっすぐ登ります。

登り切ると、かなり広い平坦面が広がります。
ここは曲輪?なんて思いますが、1つ北の山もこんな感じでした。
登ってきた方向から見て、城跡へは右に進みます。

スンスン進むと、奥に石垣が見えてきます。
手前には石が縦に2列並び、その両脇が浅く窪んでいます。
堀切と土橋があったような感じです。

石垣は大分らしく、平らな石の野面積みです。
割合的には7割くらいは崩れずに残っています。

2郭外周西側の石垣です。
高さは3メートル弱くらいあります。

南端は断崖ですが、2郭の石垣も崩れ気味です。
そこから2郭に上がると、端に石塁が見られます。

主郭は2郭よりも一段高くなっています。
段差はあるのですが、石垣らしい石垣はあまり見られません。

主郭の北東側に、直角に曲がっている石垣があります。
ここが枡形虎口の跡のようです。

その足元には、2郭の外へ向かうように石が並んでいます。
◆歴史◆
築城時期は不明です。
この辺りは河内地区というようですが、「鞍懸城」が2つあります。
そのため、それぞれの地名を頭につけて両者を区別しています。
もう1つの奥畑鞍懸城が先だったと考えられています。
戦国時代には田原親宏が城番となり、大内家との戦で活躍しました。
1580年、田原親貫が立て籠もりました。
1579年、田原親宏は耳川の戦の後、大友宗麟に2つの要求をしました。
1つは領地返還で、大友家は田原氏を警戒し領地の大半を没収していました。
その領地を、分家である武蔵田原家の田原親賢に与えていました。
田原親賢は大友宗麟の正室の兄か弟で、大友宗麟の寵愛を受けていました。
もう1つは、養子縁組の破談です。
これも田原親賢が絡んでいて、田原宗家の乗っ取りを企んだものでした。
田原親宏には男子が無く、大友宗麟の次男・親家に継がせようとしました。
大友家中は実力者の反発に大騒ぎとなり、養子縁組を取りやめました。
しかし、田原親宏は挙兵しました。
そして、これから府内へ攻め込もうとした矢先に田原親宏が急死します。
そのため、田原家中の総意で娘婿の田原親貫が田原宗家を継ぎました。
田原親貫は当時まだ10代後半の若武者だったそうですが・・・
毛利家と秋月家に対して、援軍の約束を取り付けていました。
この手配をした如法寺親並は、田原姓の名乗りを許されています。
田原軍は本拠の安岐城と佐野鞍懸城に籠城し、大友軍を迎え撃ちました。
安岐城は海岸沿いにあり、毛利水軍から補給を受けていました。
しかし、大友家の水軍の将・若林鎮興が撃退したため孤立します。
そして、1580年8月には大友軍により攻め落とされました。
残った佐野鞍懸城も、豊前の城井氏や長野氏が大友軍に阻まれ孤立。
1580年10月に激戦の末落城しました。
田原親貫の消息がわからなくなり、しばらく捜索が続いたそうです。
その後の佐野鞍懸城
・・・わかりません

総石垣なので、黒田家か細川家に整備された説もあります。
ただ、崩れた石垣には破城の形跡が見られます。
田原親貫が乱の直前に改修し、落城により廃城になったのかもしれません。
所在地:大分県豊後高田市佐野東部 GPSログダウンロードページ
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