高田城/大分県豊後高田市 | なぽのブログ
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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

高田城は水堀がよく残る平城です。
訪問日は2020年1月12日です。

高田城【1】

本丸跡付近にある中央公民館が、車を停められます。
常に開いているので、朝駆けしても大丈夫でした合格

高田城【2】

駐車場を出ると、すぐに階段があります。
この階段は要チェックですラブラブ

高田城【3】

左側の石垣が江戸時代、石段は鎌倉時代からのもの、らしいです。
石の遺構はここだけかもしれません。

高田城【4】

堀跡はかなり広範囲に残っています。
先に見たのは外堀跡で、東から北にかけて見られます。
ここは東側の大手門跡付近で、西に向かって折れている所です。

高田城【5】

大手門跡付近は浅くて水がありませんが、東側は水があります。

高田城【6】

ここは外堀の北東部分で、ここで西に向かって折れます。
堀自体はかなり長く残っていますが、堀の外側に住宅が並びます。
堀→家→道なので、堀を見られる場所は限られます。

高田城【7】

本丸の跡には桂陽小学校があります。
内堀は、小学校の北側に沿ってあります。

高田城【8】

ただし、ここも堀に沿って家が並んでいます。
家と家の間から水堀は見えますが、堀沿いには行けず。
堀に近い道を辿り、ようやく見えたのが北西部分です。
住宅街から小学校脇を抜ける道で、堀を渡る所でしか見られません。

高田城【9】

上の写真の反対側です。
こちらはコンクリートに覆われています。
辛うじて堀があった?と感じられる程度になっていますあせる


◆歴史◆

ググってもほぼ何も出て来ないので、某家伝様をなぞります。

高田氏の居館として始まりました。

高田氏は大友氏初代・大友能直とともに豊後に来たとされます。
大友能直は平安時代末から鎌倉時代初期の人物です。
『吾妻鏡』では、源頼朝の大のお気に入りと記されているそうです。
大友能直は豊後にはほんの少し居ただけで、京と鎌倉を往来していました。
確かに豊後を与えられた時に従って来た、という事はありそうです。
しかし、鎌倉時代の『豊後国図田帳』に、高田氏の名が見られず・・・
227町が寺社領、29町が大友能泰、残り5町が小田原頼景だそうです。
鎌倉時代の高田氏については?ですあせる

高田氏の名が現れるのは、鎌倉時代末になってからです。
高田定祐が大友貞宗に従い、1333年の博多合戦で戦死しています。
大友貞宗は後に討幕方となりますが、この時は鎮西探題の味方でした。
子の高田為雄は大友氏泰に従い、新田氏や菊池氏と戦っています。
孫の高田定義も父同様、菊池軍との戦いに参加しています。
遅くともこの頃には、と思います。

大友家が改易されるまで

高田氏は、地理的な関係で大内家との豊前での戦で活躍しました。
島津軍が侵攻した際も投降せず、木付城を死守。
国東半島に島津軍を入れさせませんでした。
1593年、大友家が改易され、高田正孝も領地を失いました。
没落後は高田邑浜で暮らし、1603年に没したそうです。

1594年、竹中重利が城主となりました。

大友家が改易された後、大友家旧領は細分化されました。
豊後高田は、竹中重利が1万3千石の領主となり城を拡張しました。
関ヶ原の戦では当初は西軍だったものの、黒田如水に誘われ東軍に鞍替え。
戦後、2万石に加増され、府内へ移っています。

1632年までは小倉藩・細川家の城でした。

1601年、豊前は細川忠興の領地となり、高田も小倉藩領となりました。
城主が誰なのか?ですが、中津城主の管轄だったようです。
その後、1615年に一国一城令により、城としては廃城となっています。

1639年、高田藩の藩庁となりました。

能見松平家の松平重直が豊前・龍王藩主となりました。
高田の地も龍王藩の領地に含まれていました。
松平重直はその後、1639年に高田城跡に陣屋を構え高田藩と改称しました。

1645年、廃藩となり島原藩の飛び地となります。

高田藩2代藩主・松平英親が杵築藩へ移り、高田藩は廃藩となりました。
高田の地は島原藩の飛び地となり、城跡に豊州陣屋が置かれました。
島原藩による統治は、1871年の廃藩置県まで続きました。
城跡は翌年には桂陽学校となり、現在の桂陽小学校へと続きます。


所在地:大分県豊後高田市下町

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