鹿鳴越城/大分県日出町 | なぽのブログ
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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

鹿鳴越城は、大友領北端の豊前街道を押さえるためのお城でした。
訪問日は2020年1月1日と1月11日です。

鹿鳴越城【1】

鹿鳴越城には2回行きました。
それは、1回目のルートは皆様に紹介出来ないと思ったからです。
1回目は、諸兄が紹介されている北側の農道から行こうとしました。
この道の途中、真ん中に赤と緑の何かがぶら下がっています。
そこには「ペンチで切ってまで入道する用事があるのか」とあります。
どうやらここは私道で、あまり通って欲しくない雰囲気です。
歩きで進んでも、道の主はきっと気分を害するに違いありません。

鹿鳴越城【2】

じゃぁ、東側の道から行くか!となり、その北側の入口へ移動。

鹿鳴越城【3】

入口あったあった(*´▽`*)と進みましたが・・・
割とすぐに道は無くなり、イバラ混じりの過酷な藪となりましたクローバー
地図には描かれているものの、道はすでに消滅しています。
それでも藪を突っ切って進んだ私って、きっと何かが凄いです。

帰宅後ネットで調べたら、山キチ様達も鹿鳴越城を訪ねています。
そのルートが、城キチルートとは反対の南から登る殿様道でした。
こっちなら誰でも正々堂々通れる!という事で再訪問しました。

鹿鳴越城【4】

前置きが長くなりましたが、ココが殿様道の入口です。
目印は日出殉教公園で、そこからまっすぐ北に進んだ所です。
ココで回れ右をすると、ソーラーパネルが沢山並んでいます。

鹿鳴越城【5】

さすがは殿様道というだけあって、大部分は歩きやすくなっています。
所々雨水で流されてゴツゴツと荒れた所もありますが・・・
国道10号線に役割を譲るまでは、ここがメイン街道だっただけあります。

鹿鳴越城【6】

30分程で、東鹿鳴越峠に辿り着きます。
山キチ様達は、もれなくここで右へ曲がって百合野山へ行きます。
でも、私は城キチなので、ここはまっすぐ進みます(`・ω・´)

鹿鳴越城【7】

300メートル程進むと、左手に道が分岐します。
その入口右手には「鹿鳴越城址」と書かれた白いプレートがあります。
鹿鳴越城唯一の案内です合格

鹿鳴越城【8】

この道も綺麗に整備されており、藪掻きは一切ありません。
元日早々、尾根伝いに道無き雑木林を登ったのが嘘のようです。

鹿鳴越城【9】

緩~い坂をズンズン進むと、殿様道の案内が現れます。
その10メートル先に、石塁を渡した堀切が現れますラブラブ
この石塁は城郭遺構ではなく、しし垣だと考えられています。
※しし垣は、鹿や猪の侵入を防ぐための石垣や土塁です

鹿鳴越城【10】

少しだけUターンし、古城山方向へ進みます♪
ここから先は、1回目にも通りました。
ゴールは目の前ですけどあせる

鹿鳴越城【11】

山道から右側の稜線を見上げると、すぐに堀切が1本現れます。
1回目はここから堀切を登り、城跡方向へ進みました。
この堀切から先が、鹿鳴越城の二郭です。
ただ、曲輪としては削平もなく、ただ細い尾根が続くだけです。
ココの次は超巨大二重堀切まで見所がありません。
歩きやすい山道を歩いた方がよろしいかと思います。

鹿鳴越城【12】

山道沿いには、もしかしたら竪堀かもしれない溝が沢山見られます。
私は竪堀を見分けるのが下手なので、もっとあったかもしれませんあせる

鹿鳴越城【13】

山道を水平に進むと、地形がザックリした所に出ます。
ココが超巨大二重堀切です。

鹿鳴越城【14】

真ん中の仕切りの奥にもう1条あり、こちらは木々が茂っています。

鹿鳴越城【15】

木が多いので、普通のカメラでは二重である様子が撮れません。
ここで奥義・iPhone様パノラマ写真の出陣です。
頼りになりますラブラブ

鹿鳴越城【16】

超巨大二重堀切を越えたら、主郭はもう目の前です。
入っていく道は無いので、ロープに掴まりながら登ります。

鹿鳴越城【17】

登った所が主郭の下段です。

鹿鳴越城【18】

下段は、上段の周りを帯曲輪のように囲んでいます。

鹿鳴越城【19】

上段には、山頂を示すこいつがあります。
古城山は「こじょうやま」と読むんですね!

鹿鳴越城【20】

南側は木が伐採され、眺望がきくようになっています。
丸く見える海が別府湾です。
殿様道の入口から片道2.6km、比高は約330mです。
所要時間は登りが50分、下りは35分でした。


◆歴史◆

文明年間(1469-87年)に大友親繁により築かれたとされます。

大友家と大内家

この年代は、一族どうしの争いが多いので頭が混乱します。
という事で、大友家と複雑に絡んだ大内家の相関図を並べます。
対照的なのは、大友家では兄弟どうしの争いが続いている事です。
大内家は統一され、将軍にそそのかされた大内教幸だけが対立勢力です。
鹿鳴越城が築かれたのはこの頃です。

大内教幸はかつて、大内持世に反抗していた時期がありました。
そのため討伐され、戦に飽きた大内教幸は出家し道頓と号しました。
以後は弟の大内教弘と和睦し、良き指南役となっていました。
しかし、大内政弘が応仁の乱で西軍として上洛すると調略されます。
将軍・足利義政が、道頓こそ大内家当主だとそそのかします。
そして、大友親繁と協力して大内政弘の討伐を命じました。
1470年2月に道頓は挙兵、1471年末に鎮圧され豊前へ逃れました。
豊前で抵抗を続ける道頓に対し、将軍から停戦命令が出たのが1476年です。
鹿鳴越城は、大内軍が豊後へ侵入するのを防ぐために築かれたようです。
田北親幸や渡辺氏、新辺氏、河内氏などが城番を務めました。
大友家と大内家②
それからしばらくの両家のザックリした関係です。
和戦織り交ぜながら、北九州を巡る攻防が続きました。

1534年4月、すぐ北で勢場ヶ原の戦がありました。

勢場ヶ原の戦は、大友家と大内家の間では最大級の戦だったとされます。
大内義隆は九州では豊前・筑前・筑後・肥前4ヵ国の守護でした。
しかし、反大内勢力に大友家が支援するため、統治に苦労しました。
そのため、大内義隆は大友義鑑を討ちに出ます。
1534年、重臣・陶興房を大将とする3000の兵力で豊後へ侵攻。
大友義鑑も吉弘氏直、寒田親将を大将に2800の兵力で迎え撃ちました。
大友軍は大村山に本陣を置き、地蔵峠と立石峠、鹿鳴越峠も押さえました。
大内軍はこれらの状況を把握し、大村山を集中攻撃します。
大友軍の大将・吉弘氏直は自軍が優勢と、自ら先陣を切ります。
しかし、乗馬に矢が当たり、落馬した所を討ち取られてしまいます。
その後、大友軍は別動隊が合流し反撃に転じます。
大内軍は緒戦の優勢に油断し、大将の陶興房も負傷するなど苦戦。
両軍痛み分けとなり、大内軍は退却しました。
その後、1538年に将軍・足利義晴の命令により和睦しました。

1586年、大友義統が豊前へ逃亡しました。

島津軍が豊後へ侵攻し、大友家臣の投降が相次ぎました。
激しく抵抗し続けたのは、臼杵城、岡城、栂牟礼城など少数でした。
そんな中、大友家当主の大友義統は府内の詰城の高崎城に居ました。
父・大友宗麟の要請していた豊臣軍がようやく到着。
戸次川に布陣すると、島津家久の軍勢と激突しました。
この戦は、仙石秀久がそのまま讃岐へ逃げるなど豊臣軍が大敗します。
すると、大友義統は戦わずして豊前へと逃げ始めました。
この時、鹿鳴越城から狼煙を上げて合図していたそうです。
島津軍から逃れた大友義統は、豊前の龍王城に入っています。
大友義統はこの7年後、朝鮮半島でも敵前逃亡をしました。
この時は流石に許されず、改易処分となっています。


所在地:大分県速水郡日出町大字豊岡(古城山) GPSログダウンロードページ

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