大友氏館/大分市 | なぽのブログ
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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

大友氏館は、1990年代後半に発見された大友氏の居館です。
訪問日は2019年12月31日です。

大友氏館【1】

大友氏館跡には、南蛮BYNG交流館があります。
(スペルは合っています)
ここの駐車場に、大きな看板が2枚並んでいます。
駐車場のかなりのスペースが割かれていますが・・・

大友氏館【2】

そちら側には、東九州の大動脈・日豊本線が走っています♪
電車の乗客へのアピールのようです。
駐車場の線路側には長い土塁があります。
この感じは、最近流行りの復元モノではなく本物のようです。
県庁所在地の元市街地であろうココで、これだけ残っているのは奇跡です。

大友氏館【3】

建物の前には、立派な髭をたくわえた人物の胸像があります。
さっきの看板に描かれていた人物ですね!
首から十字架を下げており、お召し物もカラフルだったと思われます。
金沢城下の前田利家像みたく色塗ったら怒られます。。。よね?

大友氏館【4】

建物を挟んで反対側は、公園っぽく整備されつつあります。
どうやら、こっち側は庭園を復元しようとしているようです。
今年(2020年)4月に公開予定だそうです。

大友氏館【5】

大部分はこんな感じで、市街地を撤去したばかりのようです。
これだけの広さを確保するなんて、行政のチカラ恐るべしです。
全体の復元計画は、2029年度完成を目指しているようです。
まだまだ始まったばかりです。

大友氏館【6】

ただいま絶賛整備中!ということで、将来の土塁?上に重機が。
これとよく似た光景を、徳島の勝瑞城跡でも見ました。
ショベルカーって、どこでも土塁の上に乗りたがるんですねw

大友氏館【7】

反対側の端っこから見た所です。
建物だけ無くなった市街地ですね。
来年の今頃には、違う風景になっているかもしれません。


◆歴史◆

大友氏の居館でした。

名前のまんまですがあせる
築かれた時期は不明です。
元々は古国府にあり、室町時代初期に上原館へ移っています。
1557年に臼杵城を居城に移しているので、その間という事になります。
なので、その時期はいつ頃なのか推測してみます。

南北朝時代の大友家は、南朝方に何度も攻められています。
調べただけでも、1352~71年まで最低でも5回は攻められています。
南朝方が1372年に崩壊すると、その後は大友家中で争いが続きます。
これは、少弐氏とともに大内氏に敵対したことによります。
大友持直が1431年に大内盛見を討ち取り、幕府に討伐されました。
そのため、大友持直方と幕府寄りの大友親綱方に割れました。
大友持直は1445年、幕府方に攻められ姫嶽城で自害しています。
その後も大友政親・義右父子の争いなど、不安定な時期が続きます。
大友家中がまとまるのは、1496年に大友親治が当主となる頃です。
庭園付きの大規模な居館となると、これ以降じゃないかと思います。

1557年、大友義鎮が居城を丹生島城(臼杵城)に移しました。

大友義鎮は大友宗麟の事です。
1556年、大友家中で「氏姓対立事件」が起きています。
これは、大友一門ではない家臣(他紋衆)による謀反です。
二階崩れの変(1550年)の後、大友義鎮は同紋と他紋を半々にすると約束。
しかし、数年経つと同紋衆ばかりが重用される状況に戻りました。
そのため他紋衆の大物・小原鑑元が、他紋衆を集め蜂起しました。
暗殺を恐れた大友義鎮は、難を避けるため臼杵の丹生島城へ移りました。
他紋衆は討伐され、他紋衆筆頭の佐伯惟教は伊予へ逃れました。
大友義鎮は丹生島城を本格的に整備し、そのまま居城としました。
府中は既得権益で溢れ、大友家にはあまり利権が無かったようです。
そのため、新たな城下町を築くことで利権を求めたと考えられています。
それでも、大きな行事の時には、大友義鎮は府内へ出向いたそうです。
大友宗麟は1576年に隠居し、大友義統に家督を譲っていました。
大友家の政庁は府内のままで、当主となった大友義統が居たと思われます。

1579年、田原親貫に攻められそうになりました。

田原親貫は、家中では最大規模の大友一門です。
8代前から宗家に反抗的で、先代・田原親宏は一時追放されていました。
田原親宏は帰参後、対毛利戦で大活躍しましたが冷遇は続きました。
しかも領地は戻らず、分家の田原親賢が大友宗麟に寵愛されていました。
田原親賢は田原宗家乗っ取りのため、大友宗麟の子に継がせることを計画。
反発した田原親宏は、没収されたままの領地返還と養子縁組破談を要求。
動揺した大友宗麟は要求を呑みましたが、予定通り挙兵しました。
しかし、出陣直前に急死したため、娘婿の田原親貫が家督を継ぎました。
そのまま府内を攻める計画でしたが、嵐により水軍を出せませんでした。
同じ時期に、やはり田原親賢の讒言により田北紹鉄も挙兵。
両人が同時に府内を攻めたら、大友軍が不利だと大騒動になりました。
そのため、田原親賢や田北紹鉄が狙ったのは大友義統と思われます。
しかし、田北紹鉄は南郡衆に討伐され、田原親貫も孤立し討伐されました。
府中攻撃は未遂に終わりました。

1586年、島津軍に焼き払われました。

島津義久は大友宗麟を討つべく、豊後へ出兵しました。
島津軍は肥後から島津義弘、日向から島津家久が進軍しました。
島津軍に投降する者が相次ぎ、残ったのは臼杵城と岡城、栂牟礼城のみ。
府内を守るはずだった大友義統は豊前に逃れたため、島津軍が殺到。
大友家の中心的政庁である大友氏館が焼き払われました。
その後、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出し、最終的に島津家は降伏しました。
大友家は命脈を保ち、豊後一国を安堵されました。
この直後に、大友宗麟が世を去っています。

1597年、府内城築城により廃されました。

1593年、朝鮮での敵前逃亡により、大友義統が改易されました。
大友家の領地は没収され、府内のある大分郡は太閤蔵入地となりました。
その後、福原直高に大分郡が与えられ、府内城が築かれました。
以後、豊後の中心は府内城に移り、大友氏館は廃されました。
それまで使われていたのかが?ですが・・・
太閤蔵入地の代官所的なものはあったかもしれません。


所在地:大分市顕徳町

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