松牟礼城/大分県竹田市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

松牟礼城は、大友家一門である田北氏の詰め城でした。
訪問日は2019年12月31日です。

松牟礼城【1】

松牟礼城は田北氏の居城である田北城の北へ約3kmにありました。
南側を通っている奥豊後グリーンロードから、城跡への道があります。

松牟礼城【2】

要所要所に案内があるので、迷わず城跡まで辿り着くことが出来ます。
まだ1kmほどありますが、道は既に落ち葉で覆われています。

松牟礼城【3】

城跡まであと300メートルの所で道が分岐しています。
城跡への道は、地面フカフカの未舗装道です。
いつもならここでヤバイと思い車を降りる感じですが・・・

松牟礼城【4】

ここまで乗って来ちゃいました。
割とすぐにヤバイと思いましたが、幅の広い所を探す内にという感じです。
道はここが終点で、スペース的には軽がギリギリUターン出来る広さです。
ただ、地面が柔らかいので、タイヤが空回りしました。
ここから出れないのでは?と焦りましたが何とか方向転換出来ましたあせる

松牟礼城【5】

ここから徒歩で登ります。
車を停めた所のすぐ上ですが、少しだけ窪んでいます。

松牟礼城【6】

登城路は回り込む感じで、車の上のスペースに出ます。
ここ、曲輪ですねラブラブ
先ほどの道は、この曲輪の真横を通るよう進路を限定されています。

松牟礼城【7】

登城路は真っすぐ頂上へは向かわず、U字型に回り込む感じで続きます。

松牟礼城【8】

上には、かなりはっきりした堀切があります。
登城路は、この堀底を横切ります。
見ようによっては虎口の役割も果たしています。

松牟礼城【9】

堀切のすぐ上のスペースに、独特な形の石碑があります。
ここが主郭で、石碑は松牟礼城の城址碑ですラブラブ

松牟礼城【10】

城址碑の裏側から見た主郭です。
大友家一門の詰め城ですが、それ程大きなお城ではなかったようです。


◆歴史◆

大友家一門・田北氏の城でした。

田北家は大友家2代目・大友親秀の七男・親泰を祖とします。
直入郡田北村と速水郡日差荘を与えられ、田北姓を名乗るようになります。
以後、田北氏は田北城を居城とし、松牟礼城を詰めの城としました。

田北氏は、大友家の重臣中の重臣である加判衆に列します。
戦国時代には田北鑑生、鑑重(紹鉄)、鎮周兄弟が活躍。
田北鑑生は加判衆筆頭として、筑前・筑後を仕切りました。
田北紹鉄は「豊後で最も強く策略もある」とされた人物です。
そのため大友宗麟に恐れられ、弟の田北鎮周の方が重用されています。
しかし、田北鎮周が原因で1578年、耳川の戦で島津軍に大敗しました。
重臣が数多く討死し、大友家中では権力争いが始まります。
その中で、田北紹鉄は讒言により貶められ、大友宗麟に討伐されました。
田北兄弟が3人とも没したため、田北家嫡流は滅びました。

1587年、島津軍に攻め落とされました。

田北紹鉄が討たれた後、吉弘鎮信の次男が田北家を継がせました。
田北統員は佐伯惟定と共に島津軍と戦い、手柄を立てた武将です。
しかし、家臣の多くを率い出陣したため、松牟礼城は手薄でした。
その間に島津軍に攻められ、落城しています。

1593年、大友家が改易されました。

朝鮮出兵の最中に、大友家が改易されました。
大友義統が敵前逃亡をしたとするのが原因です。
これは誤報に基づいて行動した結果でしたが・・・
田北統員は領地を失い、流浪の身となります。
後に田北統員は熊本藩細川家に仕官し、吉弘紹傳と改名しています。


所在地:大分県竹田市直入町上田北 GPSログダウンロードページ

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