山野城/大分県竹田市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

山野城は大友家重臣・朽網氏代々の城でした。
訪問日は2019年12月31日です。

山野城【1】

山野城は、城域内を林道が通っています。
そのため林道周辺は破壊されており、どこまでが城域だったのか?です。
ということで、駐車場から結構離れた所まで歩きました。
流石にココは違うかな?というココまで。
写真右に曲がったカーブは、その先で下って行きます。

山野城【2】

道端から林道脇の高い所に登り、稜線に沿って駐車場方向へ。
でも、普通に自然地形ばかりで、ただの藪歩きに。
それでも、転機は突然やって来ます。
視界に現れたのは、自然地形というには真っ直ぐ過ぎる窪みです。

山野城【3】

そのまま進むと、稜線もこんな感じになっています。
間違いなく、人工的に掘られた堀切ですラブラブ
どうやらここからが城域のようです。
下の地図の右下の水色の線がココの堀です。

山野城【5】

堀の向こう側に登りましたが、何となく平坦ではある感じ。
きっちり平らに馴らした訳でもなく、曲輪かどうかは?です。
※某大聖典の図だと的場という曲輪のようです

山野城【6】

この上を更に進むと、右脇の影が急に濃くなりました。
かなり高低差があるように思いましたが・・・

山野城【7】

真正面にさっきよりもかな~り深い横堀が現れました(*´▽`*)
下りる道は無いので、慎重に下りました。
堀はやっぱり堀底で堪能するものですねラブラブ

山野城【8】

相当規模のデカイ堀が、結構な長さで続いています。
これほどの堀は、小田原古城以来です。

山野城【9】

そのまま堀底を歩くと、そのまま竪堀となって落ちて行ってます。

山野城【10】

堀の終端付近に、回り込む感じの虎口がありました。

山野城【11】

その向こう側にも堀がありました。

山野城【12】

堀はそのまま、高い所へと浅く続きます。

山野城【13】

その先の高い所が曲輪?かと思い登ってみましたが・・・
平らな所は狭く、曲輪な感じではありませんでした。
※某大聖典の図を見たら、ここが主郭らしいですあせる

山野城【14】

狭かったのは、ここで堀が分岐していたからでした。
分岐する堀、大好きですラブラブ

山野城【15】

途中から分岐した堀は、元来た林道の上で開口していました。

山野城【16】

メインの長い方は、林道の真横に続いています。

山野城【17】

あぁ、満腹満腹と林道へ戻り駐車場へ。
向かおうと思ったら、道の反対側にも大きな堀がラブラブ

山野城【18】

林道脇で二股に分かれた大きな堀があります。
ただ、堀と堀の間が曲輪っぽくないんですよね・・・
ここの堀も、林道脇で分岐していますが、続きが???です。
普通なら曲輪の範囲がわかるのですが、堀の脇の土塁もナシ。
林道で破壊されているとはいえ、構造がよくわかりませんあせる
山野城では、堀に田北堀、入田堀、志賀堀などの名前がありました。
これは、城の改修を手伝ってくれた同僚の名前を付けたものだそうです。
どこが何という堀なのか、案内が欲しい所です。

山野城【19】

城址碑や説明板は、堀から離れた所にあります。

山野城【20】

本当に、どこからどこまでが城跡なのか???ですあせるあせるあせる


◆歴史◆

朽網氏の城でした。

築城時期は不明ですが、朽網氏が代々居城としました。
朽網氏は、古庄重能をルーツとします。
古庄重能には2つの説があり
①大友家初代・大友能直の養父・中原親能の子
②大友家初代・大友能直の弟
じゃないか?と囁かれています。
大友能直も古庄姓を名乗っていたのですが、どちらでも身内は身内です。
古庄重能は、豊前・豊後の守護となった大友能直の補佐として下向。
直入郡朽網荘に入り朽網姓を名乗りました。
中原親能は大神一族の大野氏を滅ぼしたとされます。
大神一族にも朽網氏がいたので、その養子になったと考えられています。

1518年、朽網親満が乱を起こし討伐されました。

朽網親満は、大友親治が家督を継いだ時に加判衆となりました。
当時の大友家は菊池家乗っ取りを図り、家督争いに介入していました。
朽網親満は菊池武経の護衛に当たり、対立した菊池政隆を排除しています。
大友家の大黒柱でしたが、大友義長の次の大友義鑑と不仲だったようです。
大友義鑑が家督を継ぐことが決まると、加判衆から離脱しました。
1516年、古庄治重父子に謀反の嫌疑が掛けられ、府内へ呼び出されました。
しかし、古庄父子は脱出し、宇佐宮番長のもとへ逃れました。
すると、自分にも塁が及ぶと読んだ朽網親満は、道場寺へ逃亡。
近隣各所に働きかけて、大聖院宗心を大友家当主への擁立を画策します。
大聖院宗心は、朽網親満が加判衆になる前に、大友政親と争った人物です。
しかし、色々と思惑がズレてしまい、朽網親満が単独で挙兵。
高崎山城に籠りましたが、大友義長・義鑑父子により討たれました。
朽網氏は滅びましたが、入田親廉の次男・鑑康が朽網家の名跡を継ぎました。
当時の入田氏は加判衆で、大友義鑑の超お気に入りでした。

朽網鑑康は、1550年の二階崩れの変で実家に同調せず生き延びます。
そして、大友宗麟のもとで加判衆を務め、主要な合戦で活躍します。
耳川の戦では、志賀親守とともに肥後方面の総大将を務める程でした。

1588年、朽網氏が滅ぼされます。

1586年、島津軍が豊後へ侵攻しました。
豊後大野周辺の大友家臣は、入田氏や志賀氏、一萬田氏などが寝返ります。
朽網鑑康は山野城に籠り、島津軍に抵抗していました。
しかし、嫡男の朽網鎮則が持ち場の三船城を捨て山野城に逃げ込みました。
朽網鑑康は激怒し、自ら戦陣に出たものの、病のため世を去りました。
朽網鎮則は島津軍の猛攻に堪え切れず降伏しました。
その後、島津軍は豊臣秀吉の軍勢に押され薩摩へ撤退。
島津軍に降伏していた大友家臣達は、大友家に帰参しました。
戦後間もなく大友宗麟が没し、大友義統が家督を継ぎました。
すると、島津軍に寝返ったり降伏した者達を容赦なく処罰し始めました。
朽網鎮則は上方への逃亡を図りますが、佐賀関辺りで捕まり自害します。
子の朽網統直も国東で討たれ、朽網氏嫡流は滅びました。
逃げ延びた一族は肥後へ入り、蒲池姓を名乗り久留米藩士となりました。
大友義統は、朽網氏の城だった山野城を廃城としました。


所在地:大分県竹田市久住町仏原 GPSログダウンロードページ

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