小牟礼城/大分県豊後大野市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

小牟礼城は、大友家一門である一萬田氏の城でした。
訪問日は2019年12月30日です。

小牟礼城【1】

城跡への入口は、県道57号から細道に入ってすぐの所にあります。
軽1台分の幅がある路肩に車を停めました。
奥に見えている石碑と白い板のある所が城内への入口です。
尚、車のすぐ後ろに下への「道?」がありました。
素朴に道だろうなぁなんて思っていましたが、堀切らしいですあせる

小牟礼城【2】

城跡への入口です。
古びた石碑と説明板が目印です。

小牟礼城【3】

城内へは切通状の道を上がります。
この道は往時からあったようです。
傾斜がキツイので、一気に駆け上がることは出来ません。
右側の高い所は櫓台状になっており、上から狙い撃ちされそうです。

小牟礼城【4】

城内へ向かう道の途中に、2本の石柱が立っています。
たぶん鳥居があったんだろうと思います。
熊本地震の時に崩れてしまったのでしょうか?

小牟礼城【5】

坂道を登り切ると、入口に土壇があります。
いきなりですが、この上が主郭です。

小牟礼城【6】

主郭には小さな神社が祀られています。
地面を見ると、昔は社殿があったっぽい感じです。

小牟礼城【7】

神社のある主郭城塁の手前には、何となく意味深な地形があります。
ヒマ潰しの城跡巡りなので、気になった所には即突撃です。

小牟礼城【8】

奥にはちょっとした腰曲輪がありました。
削平が甘いので、居住空間にはなり得なさそうですが・・・
柱で調整すれば、その限りでもなさそうです。

小牟礼城【9】

主郭より一段低い曲輪が奥へと広がっています。
ココが二郭です。
とんでもない広さです。

小牟礼城【10】

主郭から見て右端には、高さ2メートル程の分厚い土塁があります。
※奥から撮ったので、左側に写っています。

小牟礼城【11】

広い二郭の輪郭をなぞろうと、時計回りに外周を辿ってみました。
しかし、主郭から見て左奥は、矢竹がビッシリ密生しており進入不可。

小牟礼城【12】

やむを得ず、矢竹の茂みを避けて歩ける所だけ進みました。

小牟礼城【13】

右奥は少し矢竹の密度が薄く、奥へと進むことが出来ました。
すると、奥に3メートル程低い広大な曲輪がありました。

小牟礼城【14】

こうなったら行ける所まで逝こう!ということで下りました。
二郭側の城塁です。
とりあえずそのまま真っすぐ下りましたが、虎口があります。
そちらは後で。

小牟礼城【15】

最初に下りた曲輪は、二郭に沿って幅10メートル程の細長い曲輪でした。
奥が見えないので進んでみると・・・

小牟礼城【17】

その下にも広大な曲輪がありました。
流石は大友一門の城だけあって、かなり広いです。
奥まで進んでみましたが、矢竹が密生していて進めませんでした。

小牟礼城【18】

さて、行けるところまで逝ったので、次の城へ向かうべく撤退。
外周を時計回りに歩いたので、奥から見て左端を上がりました。
すると、二郭の1つ下の段へ上がるスロープがありました。
そこを上がると、こんな感じの虎口がありました。
虎口の先も深い藪だったので、どこへ通じているのかは???ですあせる


◆歴史◆

一萬田氏の城でした。

小牟礼城の築城時期は不明ですが、大友家重臣・一萬田氏の城でした。
大友能直は源頼朝の寵臣で、1193年に豊前・豊後の守護となります。
大友家初代・大友能直は相模国出身で、父親を早くに亡くしました。
そのため母の姉婿である中原親能の養子となります。
その中原親能が大野郡の荘官・大野氏を滅ぼし、地頭職となります。
中原親能が没すると、大友能直の母親に大野郡が譲られます。
さらに1240年、母から子へ大野郡が4分割され譲渡されました。
大野郡を与えられた大友能直の弟達が、一萬田氏や志賀氏の祖先です。
一萬田氏の祖・一萬田時景により小牟礼城や鳥屋城が築かれたとされます。

1586年、一萬田鎮実が島津軍に寝返りました。

島津軍が豊後へ侵攻すると、豊後南西部では寝返る大友家臣が続出。
その面々は大友一門の志賀氏や入田氏など、錚々たる顔ぶれでした。
この時に一萬田鎮実ら一萬田一族も、島津軍に寝返っています。
彼らはそれぞれの事情で、大友宗麟に恨みがありました。
一萬田家では、一萬田鑑実の父・鑑相が酷い目に遭っています。
大友義鎮(宗麟)は、美女だと騒がれた一萬田鑑相の妻を奪いました。
それだけでなく、謀反の疑いを掛けて1553年に討ち取っています。
父の死により家督を継いだのが、一萬田鑑実でした。
一萬田鑑実は1569年、父の弟・高橋鑑種の謀反討伐にも参加しています。
高橋鑑実も、大友宗麟の命令に従って酷い目に遭っていました。
一萬田鎮実自身がどうだったかは?ですが、島津軍に寝返りました。
ただ一人、一萬田鑑実だけは寝返りませんでした。
大友家存亡の危機は、豊臣秀吉により終止符が打たれます。
九州征伐軍が到着すると、島津軍は薩摩へ撤退。
残された一萬田鎮実は、逆襲に転じた大友軍に降伏します。

一萬田一族のその後です。
一萬田鎮実、叔父の一萬田鑑之、従兄弟の一萬田統政が命じられ自害。
一萬田家嫡流はこの時に滅びました。

寝返らなかった一萬田鑑実の最期は自害していますが曖昧です。
出てくる説としては
①島津軍に降伏した時に大野郡野津原今畠で自害した説
②1588年、一族の不忠に連座し大友義統に自害を命じられた説
などがあります。

九州征伐後も、一萬田鎮実の弟・宗賢が大友家に仕えています。
この事から、ただ同族というだけでの連座は無かったと思います。
また、一萬田鎮実の正室は大友宗麟の娘でした。
おそらくは①で、一族は島津軍に敗れやむなく従ったのかもしれません。

その後の小牟礼城は???ですが・・・
一萬田氏の鳥屋城は、宗像鎮続に与えられています。
出自が?な人物ですが、一萬田氏の血縁者に宗像姓の人居ましたよね?
もしかすると、もしかするかもしれません。
なので、生き残った一萬田宗賢が小牟礼城に居たのかもしれません


所在地:大分県豊後大野市朝地町市万田 GPSログダウンロードページ

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