訪問日は2019年12月29日です。

ここはどういう訳か、色々と整備されています。
南側の道端に、車がたくさん停められる駐車場があります。

この駐車場脇から、城跡まで歩きやすい遊歩道があります。

その途中に、大きな堀切があります。
今では脇を登る道がありますが、往時は上を歩いていたのでしょうか。
道があっても無くても「ここから登らせたくない」という意思を感じます。

私は勝手に道は一直線だと思っていました。
比高60メートルを一気に登れると、どこかに書いてあったような・・・
そう思って油断していると、一気には登れず「あれ?」となります。

登城路には堀切が2つあるというのが事前情報でした。
2つ目はまだかな?と思いながら登っていました。
そんな私の目に、ちょっとした変化が映りました。
もしかしてココ?と、ちょっと掻き分けてみました。
堀切や横堀のような窪みはありませんが、ちょっとした平坦面はあります。
ここに兵を置いて守らせたのかもしれません。

そんなこんなで、私なりには色々あったつもりの10分間でしたw
主郭には高射砲の台座が残っています。

手作り感満載な山頂プレートです。
椅子の上に乗っている板の裏は見ていません。
今更ですが、ちょっと気になってきました


主郭は、高射砲の台座がある所が一段高くなっています。

某大聖典の図では、登ってきた方から見て右側に虎口が描かれています。
そうとは知らずにいると見落とすレベルですが、見つけました

真ん中に写っていますが、見えますか?

下からの方がよく見えますが、両脇に石が積まれています。
周りと地形が殆ど変わらないので、虎口には見えづらいです。

虎口のすぐ下には、土塁が端に付いた横堀っぽいのが見えます。
帯曲輪にしては狭いし、犬走?なのかもしれません。

そちらへ下りて右へ進むと、かなりハッキリした竪堀があります




竪堀には、ココ一の石垣があります。
ほんの2メートル程ですが、摺木城で見たのと同じ積み方です。
これがずっと続いていたとしたら、登り石垣になります。

虎口から戻り、主郭を奥へと進みます。
そんなに奥でもない四阿ですが、凄い遠回りして来た感が溢れてます。

主郭はちょっと段差がありましたが、そこから北はずっとこんな感じです。
細長い平坦面がずっと続き、両脇は木で覆われています。

先端部は道が脇へZ字形に下りています。
まっすぐでない所が、何となく虎口っぽさを感じさせます。
◆歴史◆
1569年、佐伯惟教により築かれました。
佐伯惟教は1556年、小原鑑元が起こした姓氏対立事件に巻き込まれました。
姓氏対立事件は、大友一門とそうでない家臣との争いです。
大友一門は「同紋衆」、そうでない派は「他紋衆」と呼ばれていました。
小原鑑元は他紋衆を糾合し、大友義鎮に対し謀反を起こしました。
他紋衆筆頭だった佐伯惟教は、この謀反には加わっていませんでしたが・・・
蜂起した他紋衆が鎮圧されると、佐伯惟教も討伐対象となりました。
佐伯惟教は抵抗らしい抵抗はせず、一族をまとめて伊予へ逃れました。
それから10年以上経ち、大友義鎮は毛利元就と北九州で激しく争います。
その中で、水軍の強化が必須となり呼び戻されたとされます。
佐伯惟教が帰参した時に築いたのが烏帽子岳城です。
いきなり本拠には戻してもらえなかったようで、ここで1年過ごしています。
翌年には栂牟礼城が返還され、佐伯へ戻っています。
また、同時期に大友家の重臣中の重臣である加判衆となっています。
所在地:大分市白木 GPSログダウンロードページ
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