平田城/大分県中津市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

平田城の別名は、「白米城」と書いて「まったけじょう」と読みます。
山間にしては米が採れたことと、地名が町丈だった事に由来するそうです。
訪問日は2019年12月28日です。

平田城【1】

平田城の東側に、トイレもある立派な駐車場があります。

平田城【2】

駐車場の北端から、城内へと上がる道があります。
ここに説明板があります。

平田城【3】

城内への道は、白セメントで舗装されています。
この道、元農道でしょうか?
入ってすぐの所に獣避けフェンスがありますが、開放されています。

平田城【4】
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このフェンスに縄張図が付いています。
ここでは扉の裏側なので撮りづらいですが、上にもう1枚あります。

平田城【5】

道を上がると、北台側に小さな神社があります。
・・・と思いましたが、数基のお墓も一緒にあります。
という事は仏教系なので、お堂でしょうか?
よく見ていないので、城主様との関係等???ですあせる

平田城【6】

この目の前で、道が分岐しています。
左側に分岐した道がこんな感じです。
低い南台から先に見ようということでこちらへ。

平田城【7】

横矢の効いた曲がり方をしながら、緩やかに南台へと通じています。
上の方に見える石垣が、南台の虎口です。
白い板には「黒田時代の石垣↑」と書かれています恋の矢

平田城【9】

これがその「黒田時代の石垣」です。
曲輪を平坦にするためか、周りを囲んでいます。

平田城【10】

南台の内部です。
広い平坦地の奥に、大きな忠霊塔があります。

平田城【11】

南台を囲む石垣は、高いところでは2メートル以上ありますラブラブ

平田城【13】

南台の奥から、白セメントの道が下ります。
道の脇の様子から、こちらにも虎口があったようです。

平田城【14】

道は登ってきた入口へ向かって急カーブ。
奥に見えるのは北台です。

平田城【15】

遠巻きに石垣が見えます。
今から行くよラブラブなんて、心の中で叫びましたが・・・

平田城【16】

ずっとフェンスで囲まれ入れず。
北台へ通じる道も、御覧の通りです。
丁度継ぎ目ですが、開けられないようガッチリ固定されていますハートブレイク


◆歴史◆

野仲氏により築かれました。

野仲氏は豊前守護・宇都宮氏の庶流です。
1195年、野仲郷を与えられた宇都宮宗房の三男・重房を祖とします。
野仲重房は1198年に長岩城を築き、近い年代に平田城も築いたとされます。
某大聖典では、先に平田城を築いて居城としたと書かれています。

天正年間は平田掃部介が城番を務めました。

戦国時代には、野仲家臣の平田掃部介が城番を務めていました。
どんな人物なのかは???ですあせる

1588年、黒田家筆頭家老・栗山利安が城主となりました。

九州征伐後、黒田官兵衛が豊前6郡を与えられました。
島津家寄りだった城井鎮房は九州征伐の際、病と称して参陣しませんでした。
そのため豊臣秀吉の不興を買い、伊予移封や家宝の提出を求められました。
城井鎮房がこれらを拒否したため、黒田官兵衛と争うことになりました。
野仲鎮兼は本家の城井鎮房に従い、黒田軍に抵抗しました。
しかし、支城が1つ1つ攻め落とされ、ついに本拠の長岩城も陥落しました。
野仲氏は滅ぼされ、栗山利安に野仲氏旧領の6千石が与えられました。
栗山利安は平田城を居城とし、石垣造りの城に改修しました。

1601年、黒田家が筑前へ移りました。

関ヶ原の戦での功により、黒田長政が筑前へ移りました。
栗山利安も朝倉郡に1万6千石を与えられて移っています。
これ以降の平田城については、いくらググっても出て来ません。


所在地:大分県中津市耶馬溪町大字平田 GPSログダウンロードページ

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