金沢城/秋田県横手市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

金沢城は戦国時代の城ですが、金沢柵があったかもしれない所です。
訪問日は2017年8月8日です。

金沢城【1】

金沢城は「かねざわ」と読みます。
後三年の役の舞台となった金沢柵があったかもしれない場所です。
そのため、周囲には後三年の役関連の看板が数多くあります。
訪ねる人が多いためか、とてもよく整備されています。
私が訪ねた時は貸し切りでしたけどw

金沢城【2】

駐車場には「金沢柵推定地」の説明板があります。
金沢城があったのは間違いないのですが、文章の大半は金沢柵です。
・・・すっとぼけてますが、とてもいい図が載っていますラブラブラブラブラブラブ

金沢城【3】
拡大表示

もちろん、イタダキマス。
図の部分を拡大したので方位が見えませんが、左が北です。
こうして見ると、本丸の手前で左右から登城路を挟んでいます。
さらにその手前では、二の丸から横矢が掛けられる構造です。
攻めさせて敵を討つ、攻撃的な城だったように感じられます。

金沢城【4】

最初に見てきたのは西の丸です。
私、大好物は一番最後に食べる派なので、本丸は最後です。
入口はこんな感じで、表札っぽい案内が付いています。
中が見えないよう、入口にさりげなく土塁があります。

金沢城【5】

西の丸はかなり細長い曲輪で、奥が一段高くなっています。
その手前を幅のある堀で分断しています。

金沢城【6】

奥から見た所です。
堀の両側に土塁が付けられていますが、奥の方が少し高くなっています。

金沢城【7】

端に武者走りの案内がありました。
細長い西の丸に沿って、曲輪の外側に道があります。
立札では「堀切」と書かれていますが、横堀ですねw
曲輪を囲む構造が、大鳥井柵と似ています。

金沢城【8】

次に見てきたのが、二の丸の北西端にある堀切です。
二の丸の城塁を見ながら道を下った所にあります。
堀切なのですがかなり長く続いていて、どこかへ通じる道となっています。

金沢城【9】

堀切から駐車場まで戻り、いよいよ城内へ入ります。
私は外周に沿って見学することが多く、この時は時計回りで進みました。
反時計回りのこともありますが、どっち回りかはその時の気分次第です。

金沢城【10】

後付けっぽい階段を上がり、城塁に沿って左へ進みました。
こちら側に二の丸があります。

金沢城【11】

その先には、広い平坦地があります。
佐竹家の居城候補にもなったのが何となくわかる広さです。

金沢城【12】

先ほどの城塁の上にあるのが、金澤八幡宮です。
かなりの高低差がありますが、どちらも二の丸だそうです。
曲輪の定義がだんだんわからなくなってきますあせる

金沢城【13】

散々金沢柵のあった場所は確定していないと書かれていますが・・・
Wikipediaの金澤八幡宮では「金沢柵跡に勧請した」とあります。
Wikipediaなので、真偽の程は話半分と思った方が良いです。
源義家の弟の子孫である佐竹家からは、とても大切に扱われたそうです。

金沢城【14】

続いて北の丸へ。
北の丸は二の丸の北東にあります。
手前に土塁があり、中が見えないようになっていたようです。

金沢城【15】

土塁の手前には、このような堀切がありますラブラブ

金沢城【16】

二の丸・北の丸を時計回りに進むと、駐車場の上に戻ってきます。
ここにある立札には「兵糧倉跡」と書かれています。
ですが、案内図では本丸に含まれている感じです。
奥に見える一段高い所が本丸だと思っていましたが・・・
曲輪の境目って、どうやって決めるんでしょう???

金沢城【17】

奥の高い所には直接上がれず、脇を通るようになっています。
脇道の奥にも広いスペースが見えますが・・・

金沢城【18】

ココが正真正銘の本丸です。
入口の脇に、表札みたいなのがありました。
奥に城址碑っぽいのと立札が見えますが、偉い人の像があります。

金沢城【19】

奥には、脇から下りる隠し通路っぽいのがあります。
今風に言えば搦手でしょうか?
奥には連続堀切があり、この造りは小野城で見たのと共通しています。

金沢城【20】

五重堀切は、搦手を下りて右へ進んだ所にあります。
ここでいったん、下の舗装道へ出ます。

金沢城【21】

すると、道端に「五重連の空堀」の立札があります。
草で埋もれちゃってますが、背後に1つ堀切があります。

金沢城【22】

山城は訪ねる季節を選びますね・・・
せっかくの堀切ちゃん達ですが、真夏ではこれが精いっぱいですクローバー
舗装道が出来る前は、きっとこの上をえいやこらと越えたのでしょう。

金沢城【23】

搦手から下りて左にも堀切があります。

金沢城【24】

こちらは往時の姿をそのまま留めています。
山道が突然陥没したこの感じ、これが本来の姿なんでしょうねラブラブ


◆歴史◆

金沢柵はココだったと考えられています。

金沢柵は平安時代、清原武則の居城だった所です。
発掘調査では、本丸から9世紀の遺物が見つかっているそうです。
それでもまだ確定しないんですね・・・
清原武則は、前九年の役で源頼義に味方して安部氏を滅ぼした武将です。
当主・清原光頼の弟でしたが、以後の清原家当主は清原武則の系統です。
清原武則は従五位下鎮守府将軍となり、安部氏の遺領である陸奥へ移りました。
その後、清原家では嫡流が養子を迎えた事から家督争いが勃発。
この争いに源義家が介入し、後三年の役と呼ばれる戦が始まりました。
この時に清原家衡が周囲に勧められて籠ったのが金沢柵でした。
当時から難攻不落の名城として有名だったようです。
そのため源義家は下手に攻めず、包囲して兵糧が尽きるのを待ちました。
清原軍は持久戦を想定しておらず、城内の兵糧はあっという間に尽きました。
城を捨てて逃げたものの、清原家衡は捕らえられて処刑されました。
勝利した清原清衡が当主となりますが、実父・藤原経清の藤原姓に復姓。
奥州藤原氏の祖となります。

1458年、南部家の城となりました。

南部家は、陸奥北部を支配していたあの南部家です。
南北朝時代の頃から出羽へ進出し、安藤氏や小野寺氏と争いました。
勝利した南部氏は南部二郎を比内、南部三郎を仙北に配置します。
南部三郎こと金沢家光は、南部家13代当主・南部守行の子か孫です。

その後、南部家では10年ちょっとの間に当主が4度代わっています。
この頃の当主の名前でググっても何も出て来ず、詳細は不詳ですあせる
1468年か1470年頃、南部家は仙北で戦に敗れて出羽から撤退。
この頃に小野寺家や戸沢家が南部家への従属から解放されています。
金沢家光は金沢城を去り、秋田で戦死したと伝わります。
金沢家光の子・家信は久慈へ移り、その子は津軽へ。
子孫は大浦氏となり、戦国時代末に本家・南部家から独立します。

二階堂家(六郷家)の城になったと思われます。

南部家の撤退後、おそらく二階堂氏の城になったものと思われます。
二階堂氏は1560年代に六郷氏へ改姓し、後に本荘藩主となる一族です。
この辺り、ハッキリと書かれたサイト様が見当たらないのですが・・・
金沢城を巡る状況から、城キチ的推測をしてみました。

よく見かけるのは「金沢道秀、のち金沢権十郎が城主となった」です。
金沢道秀は小野寺稙道の弟で、甥の小野寺輝道により金沢家を継ぎました。
その時期は、普通に考えれば「平城の乱」後の1555年以降です。
それ以前の「金沢家」といえば、この乱で滅びた金沢金乗坊です。
金沢金乗坊は金澤八幡別当職で、金沢城の城主と思われます。
実際、小野寺輝道が金沢金乗坊を攻めた際、金沢城が落城しています。
金沢金乗坊は、すぐ北の六郷家から小野寺家に乗り換えたとされます。
という事は、南部氏撤退後に二階堂氏が金沢城を押さえた可能性が大です。

1555年以降、小野寺稙道の弟・道秀が金沢家の名跡を継ぎます。
金沢道秀には跡継ぎが無く、六郷道行の次男・孝行が養子となりました。
六郷氏は独立勢力で、小野寺氏とは従ったり戦ったりしています。
養子となった金沢孝行(権太郎)は、1567年生まれの六郷政乗の弟です。
小野寺家当主に近い家を継いでいますが、六郷家寄りの動きをしています。

1602年、佐竹家の城となりました。

常陸の佐竹義重が出羽へ国替えとなり、金沢城も佐竹家の城となりました。
佐竹東家の佐竹義賢が城代となり、小野寺旧臣による一揆を討伐しています。
1615年の一国一城令により廃城となり、1622年に破却されました。
二の丸には金澤八幡宮がありますが、後三年の役後に勧請されたそうです。
佐竹家は金澤八幡神社を厚く信仰し、社殿を10回以上改修しています
金澤八幡神社は1989年に金澤八幡宮と改称し、現在に至ります。


所在地:秋田県横手市金沢安本館(金澤八幡宮)GPSログダウンロードページ

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