稲庭城/秋田県湯沢市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

稲庭城はこの辺り一帯を支配した大名・小野寺氏の居城でした。
訪問日は2017年8月9日です。

稲庭城【1】

稲庭城跡へは、麓から登るスロープカーがあります。
山登りが嫌いな私なら是非とも利用したい「足」ですが・・・
ここに着いたのが、運行開始前の朝8時半。
元々は運行しない火曜日に来る予定だったので、歩いて登りました。

稲庭城【2】

私が登ったのは、西側の国道沿いにある登城口からです。
こちらは道沿いに色々と目印があり、とてもわかりやすくなっています。

稲庭城【3】

登城路も広く整備されており、見た目よりは歩きやすかったです。

稲庭城【4】

この道は「古城道」で、途中に遺構があります。
ここに出ている堀切は見つけられませんでしたが・・・
目線の先の尾根を下りた所にあるのかもしれませんあせる

稲庭城【5】

途中で、スロープカーのレールを横目に登ります。
あっちで登ればどんなにか楽だったか・・・なんて、つい考えます。
でもいいんです。
自分で選んだ苦難の道のりですから(`・ω・´)

稲庭城【6】

そうこうする内に、階段の上に模擬天守が見えて来ました。
手前の階段が長くて心が折れそうになりますが・・・

稲庭城【7】

麓の登城口から15分でここまで登りました。
スロープカーの所要時間が4分なので、まぁまぁだと思います。
当日は天候が悪く靄がかかり、せっかくの天守がモヤモヤしてます。

稲庭城【8】

2008年に訪ねた時は・・・薄曇りでしたくもり

稲庭城【9】

模擬天守があるのは二の丸です。
御覧の通りガッツリやられちゃってるので、平坦なだけになっています。

稲庭城【10】

・・・と思ったら、反対側には土塁が残っていました^^

稲庭城【11】

端っこには三重堀切「跡」があります。
何となく窪んでいるのがその名残なんですね。

稲庭城【12】

奥へ通じる道は、堀切に架けられた土橋の上を通っているそうです。
※この道は稲庭城とスロープカーの管理用で、一般車は通れません。

稲庭城【13】

土橋を渡ってすぐの所に、本丸への案内があります。
今回ここを訪ねたのは、こっち側を見るためでしたラブラブ

稲庭城【14】

麓から二の丸までは九十九折れでしたが、二の丸からはまっすぐです。
そりゃそうだよな~、城内だもんね~などと思ってましたが・・・

稲庭城【15】

途中に堀切があり。。。ありますよね?

稲庭城【16】

なんかまだまだ先は長そう・・・あせる

稲庭城【17】

まぁでも、模擬天守から6分で本丸に辿り着きました。
10年前に来てなかった本丸ココなんだぁ!と感無量。
途中の様子がわかったり堀切があったりで、私なりには満足でした。

稲庭城【18】
拡大表示

本丸の真ん中には、この説明板があります。
それによると、山上部分は詰めの城で、普段は麓の館に居たそうです。
まぁ、山城だとだいたいどこもそうです。
じゃぁその麓の館跡はどうなってるの?なんて、今頃気になりました。
地図を見てたら、登って来た所の国道の反対側が怪しい感じがします。
あぁ、またモヤモヤしてしまいそうですあせる

稲庭城【20】

さて、私が登り下りしたのは古城道でした。
帰りもスロープカー運行前だったので、歩いて下りました。

稲庭城【21】

さて、次行くべぇと車に乗ろうとしたら、何だか階段っぽいのが見えました。
そこにある立て札を見たら、ここも登城口でした。
道が2本あると知ってたら、登りと下りでそれぞれ通ったのですが・・・
何かこう色々やり残しがあると、3回目がありそうでちょっと怖いですあせる


◆歴史◆

鎌倉時代に小野寺氏により築かれました。

築城時期は諸説あります。
①1189年から数年の間
小野寺氏が雄勝郡の地頭となったのは、奥州合戦後の1189年です。
当主の小野寺道縄は鎌倉に居り、下向したのは小野寺重道でした。
小野寺重道はおそらく庶子で、本貫地から遠い領地の代官という立場でした。
この時に本拠としたのが稲庭でした。
②1247年から1275年の間
小野寺経道(経通?)が小野寺道業から稲庭を与えられたのがこの頃です。
小野寺経道は、北条得宗家に滅ぼされた三浦泰村の次男・三浦景泰です。
宝治合戦後、三浦景泰は出羽国大泉庄に逃れていました。
その姉を娶っていた小野寺通業が、稲庭を与え小野寺一族として迎えました。
小野寺通業は下野小野寺氏なので、遠方の領地を分け与えたのでしょう。
三浦景泰は小野寺経道と名を改め、仙北小野寺氏の祖となります。
尚、小野寺経「道」の表記は「通」と書かれているサイト様が多々あります。
どっちが正しいのか?ですが、小野寺家の通字なら「道」っぽい気がします。

1550年頃に稲庭系小野寺氏が城主となりました。

小野寺稙道が本拠を沼館城に移し、しばらくは城代が置かれました。
ここから小野寺輝道が家督を継ぐ辺りがモヤモヤっとした感じですが・・・
あれやこれやと物色した結果、以下ではないかと推測しました。
・小野寺稙道が沼館城へ移り、稲庭城には城代が置かれる
・1546年、平城の乱で小野寺稙道が自害
・小野寺稙道の子・輝道が在京のため、弟・晴道が当主を代行
・1550年頃に小野寺輝道が大宝寺氏の力を借りて仇討
・小野寺晴道は稲庭城へ移り、小野寺輝道が正式に当主となる
稲庭城主・小野寺晴道の系統は、稲庭系小野寺氏と呼ばれるようになります。

1596年、最上軍に攻められ落城しました。

1591年、太閤検地に反発する仙北一揆が発生。
その責任を問われ、豊臣秀吉が雄勝郡を没収しました。
雄勝郡は小野寺義道が争い続けた最上義光に与えられました。
しかし、小野寺義道は家臣をそのまま残し、実効支配し続けました。
1595年になり、最上義光は雄勝郡へ侵攻し始めました。
雄勝郡最大の拠点・湯沢城を陥落させた翌年、最上軍が稲庭城を攻めました。
最上軍は清水義之を大将とし、大軍で稲庭城を包囲しました。
城主・小野寺道勝(稲庭系)の奮闘むなしく、稲庭城は落城しました。
その後間もなく、稲庭城は廃城となりました。

小野寺義道はその後、最上義光と一進一退の攻防を繰り広げます。
しかし、徳川家康の命令により、両者は一旦和睦しました。
1600年の関ヶ原の戦の際、出羽では上杉景勝と最上義光が戦っていました。
小野寺義道は当初、徳川家康に味方するつもりでいました。
しかし、伊達政宗は出陣を渋り、南部利直は領内の一揆のため撤退。
100万石の上杉軍と30万石の最上軍では、誰の目にも上杉軍優勢でした。
しかも、東軍として戦っているのは、つい最近まで争った最上義光です。
小野寺義道は東軍西軍というより、最上憎しで上杉軍に加勢します。
そのため、戦後に領地を没収され、津和野へ流罪となります。


所在地:秋田県湯沢市稲庭町梺 GPSログダウンロードページ

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