山根館/秋田県にかほ市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

山根館は、由利十二頭のリーダー格だった仁賀保氏の居城でした。
訪問日は2017年8月9日です。

山根館【1】

山根館はとても整備されており、城跡からちょっと遠くにこの案内があります。

山根館【2】
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図が載っていたのでパクリますが、道案内なのでザックリです。

山根館【3】

駐車場です。
何も無ければ「ここでいいの?」ですが、説明板が目印になっています合格

山根館【4】
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この説明板に、とてもいいもの載っていました恋の矢恋の矢恋の矢
駐車場から見たら「あぁ、右に行けばいいんだ!」という描き方です。
そのため、地図の下が北です。

山根館【5】

城跡への入口です。
案内標示もあり、道も綺麗に整備されています。
ここ、かなり力が入ってます^^

山根館【6】

登城路を歩き始めて間もなく、堀跡に遭遇しました。
人の手は入っていませんが、規模といい形といい、とてもいい感じですアップ

山根館【7】

入口から1分で、綺麗に草が刈られた場所に出ました。
この高い所が主郭です。

山根館【8】

高い所に上がると、四角いコンクリートのオブジェがあります。

山根館【9】

このオブジェは山根館の立体模型でしたラブラブ
平面の図もイイですが、立体だとさらにイイですね^^
配置や位置関係など、とてもわかりやすいです。
それにしてもタイルの境目の線、立体部分にも必要でしょうか?w

山根館【10】

もう一段上がった所が主郭です。
上がった所に説明板があり、一面に礎石が整然と並んでいます。
ここまで保存状態がいい所は中々ありません。

山根館【11】
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主郭の図です。
細かな遺構まで描かれており、とてもわかりやすい図です合格

山根館【12】

図には描かれていませんが、端には土塁もちゃんと残っています。

山根館【13】

ちゃんと残っているのが珍しい石畳もあります。

山根館【14】

主郭以外も見ようと、大手道を下りました。
図では大手道の脇に堀が描かれており、右側が深く窪んでいます。

山根館【15】

幅がかなり広いようで、堀の向こう側が見えません。
堀だと知らずにいると、道が一段高いだけのように勘違いしてしまいます。

山根館【16】

下り坂になっている大手道です。
本当はこっちから上がって来るのが正解なのですが。
道の両脇に土塁があるのは、主郭近い所で虎口があったのかもしれません。

山根館【17】

図だったり立体模型では、大手道に沿って曲輪が並んでいました。
現地ではそう見えて沢山写真を撮ったのですが・・・
写真にすると、何だかよくわからない斜面の風景になってしまいましたあせる
1つ1つの曲輪の段差は小さく、明確に区画する土塁はありません。
建物なり柵があれば、もっとはっきり写るのでしょうけど。


◆歴史◆

平安時代に由利氏の居館だったと伝わります。

1085年、由利維安に由利郡が与えられ、築いた館が山根館と伝わります。
時期的に後三年の役の真っ最中のため、源氏に従って来た説があります。
由利氏はその後、奥州藤原氏に従って源頼朝と戦いました。
由利維平は捕えられても堂々とした態度を貫き、源頼朝に気に入られました。
1190年、大河兼任が起こした乱で鎌倉軍を待たず出陣し討死しています。
その子の由利維久は1213年、和田の乱で領地を没収され没落しました。
この時に由利郡を与えられたのが、源頼朝の側室・大弐局です。
大弐局は、小笠原一族である大井氏の出です。
その死後、由利郡は甥の大井朝光に譲られ、大井一族が来る遠因となります。

1468年、大井友挙が修築し居館としました。

信濃から大井友挙が由利郡に移って来ました。
その理由が・・・
・由利郡は領主不在のため不法状態で、領民が幕府に懇願していた
・村上氏との戦で大井氏が壊滅的敗北を喫した
んじゃないか?なんて想像しています。
大井友挙ははじめ、別の場所に館を築いていたそうです。
しかしその翌年、由利氏の館跡を修築して居館としました。
子の仁賀保挙政から仁賀保姓を名乗るようになり、勢力を拡大。
孫の仁賀保挙久の代には、南の庄内地方へも進出するようになります。

1550年代から矢島氏と対立しました。

矢島氏も大井氏の子孫で、当時の当主は矢島義満でした。
はじめは矢島氏と滝沢氏の争いでしたが、仁賀保氏が介入しました。
矢島義満は仁賀保氏との戦傷が元で没し、矢島満安が家督を継いでいます。
以後、仁賀保氏は矢島満安と激戦を繰り返し、4回も当主が討たれています。
ついには跡継ぎが途絶え、子吉家や赤尾津家から養子を迎えています。

1588年、宿敵・矢島満安を破りました。

仁賀保・矢島両家の争いは、上杉・最上両家の代理戦争に発展。
南の庄内地方では1587年、最上義光の調略を受けた前森蔵人が謀反。
大宝寺義興を討ち、庄内地方が最上家の版図に加わりました。
しかし翌1588年、状況が一変します。
最上義光が、陸奥の本家・大崎家の騒動に巻き込まれました。
すると、上杉景勝は本庄繁長に庄内を攻めさせ制圧しています。
由利郡でも、仁賀保挙誠が矢島満安を攻め、由利郡から追放しました。
矢島氏の居城・八森城には、仁賀保家臣の菊地長右衛門が入りました。
矢島満安は正室の実家である小野寺一族を頼りましたが・・・
頼った小野寺一族に沸いた謀反疑惑を晴らすため、1591年に自害しました。

1602年、廃城となりました。

1601年、常陸国の大名・佐竹義宣が秋田へ移封となりました。
その領地に由利郡が含まれており、由利郡の武家達も移封となります。
仁賀保挙誠は常陸国武田5千石へ移封となり、由利郡を去りました。
この「武田」は、あの「武田」の由来となった土地です。
この時に山根館は廃城となりました。


所在地:秋田県にかほ市小国南野

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