八森城/秋田県由利本荘市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

八森城は応仁の乱の頃に築かれ、明治時代まで続いたお城です。
訪問日は2017年8月9日です。

八森城【1】

城跡は現在、小学校の敷地となっています。
小学校前には水堀が一辺残っていて、松の木が雰囲気を盛り上げています。

八森城【2】

手前の角にある城址碑と説明板です。
城址碑には「戊辰勤王」の文字が刻まれています。
そっち系だったんですね!

八森城【3】

ということで、水堀ですラブラブ

八森城【4】
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水堀の前には、昔の絵図があります。
これ、イイですね恋の矢恋の矢恋の矢
平城だと思っていましたが、堀以外の三面は山で囲まれています。
雪国だと平城が多くなりますが、地形を活かして要害性を高めていますね。

八森城【5】

水堀の真ん中に架かっているのが大手橋です。
という事は、橋の向こうが大手門跡でしょうか?

八森城【6】

反対側から見た水堀です。
向こう側にはきっと土塁があったと思うのですが・・・
勝手に脳内にそんな光景が浮かんできました。
素材が無いので、今回は再現不能ですあせるあせるあせる

八森城【7】

少し引いて見たところです。
木の柵がいい味出してます爆  笑


◆歴史◆

応仁年間(1467-69)、大井義久により築かれたとされます。

大井氏は、信濃国から来た小笠原氏の一族とされます。
滅ぼされてしまったため、記録が残っておらず詳細は不明です。
この年代の信濃の大井氏は、色々と大変な時期でした。
ザックリ書くと・・・
大井氏は、鎌倉公方の後ろ盾で佐久郡のほぼ全域を支配していました。
しかし、享徳の乱で鎌倉公方が衰えてからは、衰退の一途を辿ります。
1467年、村上政清に攻められ、大井氏は一時領地を追われました。
その後、甲斐を攻めるまで持ち直しますが・・・
大井政朝が没し幼主が家督を継ぐと、村上政清に攻められ没落しました。

由利荘は鎌倉幕府が滅びてからは、鳥海弥三郎が支配していました。
カリスマ領主だったようですが、その没後、重臣2人が謀反を起こしました。
その後、この2人の元重臣も争うようになり、ともに没落。
以後、約100年にわたって領主不在で、無法地帯と化していたそうです。
領民からの要望により、幕府が地頭に任命したのが由利十二頭達です。
彼らの多くは信濃から来たと伝わっています。

大井義久の出自が不詳ですが・・・
「大井大膳大夫」の名乗りが、武田信昌の子とされる大井光照と同じです。
「小笠原大膳大夫」という名前も伝わっているそうですが・・・
それだと、小笠原家当主歴代の名乗りとダブリますあせる
遠く離れて「バレねーだろw」と、当主気分を味わったのかもしれませんが。
大井光照は、1471年に大井城主になったとWikipediaでは書かれています。
しかし、同時期の大井城主は大井政光で、1472年に甲斐へ攻め込んでいます。
想像ですが、行き場を失った大井大膳に由利行きの話が来たのかもしれません。
八森城を拠点とした大井氏は、矢島姓を名乗るようになります。
そして同族の仁賀保氏とともに、由利十二頭の指導者的立場となります。

1588年、仁賀保挙誠に城を奪われました。

当時の城主は矢島満安で、豪勇な武将として有名でした。
1560年に仁賀保氏との戦傷により父・矢島義満が没し家督を継ぎました。
以後、仁賀保氏との戦が続き、仁賀保氏の大将を3度討ち取っています。
元々は北隣の滝沢氏と争っていましたが、滝沢氏が仁賀保氏を巻き込みました。
由利地方は小領主が乱立し、それぞれ近くの大勢力と関わりを持っていました。
滝沢氏と仁賀保氏は越後上杉氏、矢島氏は小野寺氏を後ろ盾としました。
1583年、庄内で大宝寺義氏が自害し、最上義光の勢力が強まりました。
仁賀保挙誠は挟み撃ちに遭うのを避けるため、矢島満安と和睦しました。
1588年、矢島満安が最上義光に従い、仁賀保挙誠と再び対立します。
丁度この頃、本庄繁長が庄内へ侵攻して最上勢力を駆逐。
最上義光は大崎合戦に巻き込まれていて、援軍を送れない状態でした。
この時に仁賀保挙誠は他の由利領主も誘い、矢島満安を攻めました。
孤立した矢島満安は城を捨て、正室の実家である小野寺氏を頼りました。
八森城は仁賀保家臣・菊地長右衛門が城代となりました。
矢島満安は1592年、頼った城主が疑われて小野寺本家から討伐を受けました。
その疑惑を晴らすために矢島満安は自害し、矢島氏は滅びました。

1602年、最上家の城になりました。

仁賀保挙誠は関ヶ原の戦の際、最上義光に誘われ東軍に味方しました。
しかし、上杉家から刺激された矢島旧臣が蜂起し、最上軍に合流出来ず。
そのため、最上義光から西軍に寝返ったと疑われました。
関ヶ原本戦で西軍が敗れた後、仁賀保軍は上杉軍を追撃しました。
そのため、一度は徳川家康から領地を安堵されました。
しかし、1602年に最上義光の讒言により再び疑われ、領地を没収されました。
由利郡は最上領となり、楯岡満茂の弟・楯岡満広が八森城主となりました。

1623年、打越光隆が城主となりました。

最上家が改易され、元由利十二頭の一人・打越光隆が由利郡に戻りました。
この時、仁賀保挙誠も旧領である仁賀保に戻されています。
最上旧臣・鮭延秀綱が、土井利勝に仁賀保氏の武勇伝を語ったためでした。
打越光隆は間もなく没し、子の打越光久が家督を継ぎました。
しかし、1634年に嗣子が無いまま没し、打越家は改易されました。

1640年、矢島藩が立藩します。

初代藩主は生駒高俊です。
美少年を侍らせて政務を顧みなかったため改易され、流罪となりました。
生駒高俊には堪忍料として、矢島1万石が与えられました。
以後、明治維新に至るまで、生駒家矢島藩の陣屋が置かれました。

1871年頃に廃城になったと思われます。

戊辰戦争では当初、矢島藩は奥羽越列藩同盟に参加しました。
藩主の生駒親敬はその後、藩内を勤皇派で統一し、新政府軍に寝返りました。
そのため庄内藩の攻撃を受け、陣屋を自焼して新庄へ移りました。
戦後、この働きが評価され、250年ぶりに讃岐守の名乗りを許されました。
しかし、1871年8月に廃藩置県、11月に秋田県に併合されました。
この頃に矢島藩陣屋→矢島県庁は廃城になったものと思われます。
廃城後の城跡は、小学校の敷地となりました。


所在地:秋田県由利本荘市矢島町城内字八森(矢島小学校)

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