楯岡城/山形県村山市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

楯岡城は西楯山と中楯山にまたがる大規模な山城でした。
訪問日は2016年8月5日です。

楯岡城【1】

楯山は散策する人が多いらしく、南麓に広い駐車場があります。
入口には「北楯公園」とありましたが、面積の7割以上は駐車場です。
この駐車場の奥に、かなり大きな案内図が見えます。

楯岡城【2】
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上の写真に写っている案内図です。
かなりデカイ城跡だと思いましたが、城跡はこの図のほんの一部でした。
左の方で赤く囲んだ所に「楯岡城跡」の文字があります。

楯岡城【3】

そこで、城キチ向けに欲しい所だけ切り抜くとこうなります。
登城ルートは2通りあることがわかります。

楯岡城【3】

私はルートの名前から「七曲コース」を選びました。
七曲登っている間に登れる、という意味ではありません♪
登城路によく使われる名前なので、遺構が見られると期待したからです。
奥の入口に何やら不穏な文字が見えますが・・・あせる

楯岡城【5】

七曲コースはこんな感じの山道です。
人がよく歩く感じで険しさも無く、真夏でも安心して歩けました。

楯岡城【6】

登城口から15分で、別のルートとの合流点に辿り着きました。
ここが西楯山と中楯山の間にある堀切です。
当時の私は、案内図を妄信して、城跡は西楯山だけだと思っていました。
そのため、頭の中で否定してのとりあえず撮りでした。

楯岡城【7】

七曲コースから合流してすぐですが、城跡への道が分岐しています。
もうすでに城跡に入っているのですが・・・
そういう目で見なかったので、かなり色々見落としていますあせる

楯岡城【8】

堀切から歩くこと3分で、ジグザグに登る所が現れます。
上の視界が開けており「あ、この上が城跡だ」とはしゃぎます♪

楯岡城【9】

ジグザグに城塁を登り切った所が、楯岡城の主郭です。
説明板が沢山貼られた展望台がとても目立ちます。
ここには楯山防空監視哨跡の説明板もあります。
太平洋戦争末期は、ここで米軍機が来ないか見張っていたそうです。

楯岡城【10】

広い主郭の中に、楯岡城櫓跡の標柱がありました。
どこがどう櫓の跡なのかが???でしたが・・・
かなり大きな山城だと期待しましたが、当時わかったのは主郭だけでした。
わかりやすい遺構は、もう1本の登城路で見られるそうですあせる


◆歴史◆

1206年、前森今嶺により築かれたとされます。

前森今嶺の出自や楯岡に来た状況などは不明です。
先に櫤山月楯を築いたものの、3ヵ月で楯岡に移ったとされます。
前森氏は4代で没落し、越後へ落ち延びたとされます。
戦国時代に最上義光に内応し、大宝寺義氏を暗殺したのが前森蔵人です。
子孫なのかどうかは?????ですがあせる
前森氏については、それくらい情報がありません。

1261年、本城関山が城主となりました。

前森氏に代わって城主となったのが本城氏です。
本城氏は元々は里見姓を名乗っていたそうですが、出自不詳ですあせる
近くの里見氏といえば、天童氏も里見氏説が濃厚です。
もしかしたら、ですが。
本城氏は5代続いた後、没落したそうです。

1406年、楯岡満国が城主となりました。

楯岡満国は最上氏3代・最上満直の四男です。
最上満直は子を各地に配置し、勢力を拡大したことが知られています。
・・・そのくらいしかわかっていませんがあせる
楯岡満国の長兄は最上満家で、家督を継ぐ前に長瀞城に入っていました。
また、すぐ上の兄である最上満頼は大久保城に入り大窪殿と呼ばれました。
いずれも村山近辺で、最上氏がこの時期に勢力を拡大した事がわかります。

城主の楯岡満英が自害しました。

最上義光が最上八楯を争った際、楯岡満英は最上八楯側に味方しました。
争いは1577年に和睦し、天童氏の姫が最上義光に嫁ぎました。
しかし、天童御前が没すると和睦は破棄され、再び争いが始まりました。
最上義光は既に最上八楯側に調略を仕掛けており、次々に離反。
天童氏は破れ、楯岡満英も自害しました。
この時期が1580年説、1582年説、1584年説と諸説ありますあせる

楯岡満茂が家督を継ぎました。

楯岡満英の次には、一族の楯岡満茂が継ぎました。
楯岡満茂は最上義光に従い、各地で武功を挙げました。
1585年、小野寺氏の侵攻を受けましたが、最上義康とともに撃退。
1586年、小野寺領に攻め込んでいます。
1590年、奥州仕置きにより雄勝郡が最上領とされました。
しかし、小野寺氏は先祖伝来の領地として立ち退かず、再び争いました。
1595年には湯沢城を攻め落とし、楯岡満茂がその城主となりました。
関ヶ原の戦の後、楯岡満茂は由利郡本荘4万5千石へ移りました。
そのため、楯岡城には他の城主が勤番として置かれました。
勤番を務めたのは
・中山玄蕃(長崎城主)
・山野辺義忠(山野辺城主)
・鮭延愛綱(真室城主)らです。

1618年、多田光直が城主となりました。

多田光直は最上義光の末弟です。
現地の説明板では多田姓ですが、Wikipediaでは楯岡姓で紹介されています。
城主になった時に改姓したのでしょうか。
1600年の慶長出羽合戦では、鉄砲隊を率いて長谷堂城防衛に貢献。
兄・最上義光の片腕として活躍し、兄の死後も家中に重きを為しました。

1622年、廃城となりました。

1617年、山形藩2代目藩主・最上家親が急死しました。
13歳の最上義俊が家督を継ぎましたが、人望がありませんでした。
多田光直らは、最上義光の四男・山野辺義忠を当主として推しました。
そのため、最上義俊派と山野辺義忠派による家督争いが始まりました。
争いが激しさを増したため幕府が仲介したものの、両派一向に譲らず。
そのため、1622年に最上家は改易処分となりました。
多田光直は細川家預かりとなり、豊前へ流され城は廃城となりました。
子孫は細川家臣として楯岡姓で明治まで続いています。


所在地:山形県村山市大字楯岡

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