寒河江城/山形県寒河江市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

寒河江城は平城で、現在は市街地化されています。
訪問日は2016年8月5日です。

寒河江城【1】

寒河江城は平城だったため、現状はほぼ消滅しています。
唯一ココが堀跡らしい?ということで、立ち寄りました。
堀跡、らしいデス(`・ω・´)

寒河江城【2】

堀跡の上にある説明板です。
このサイズでもバッチリ読める簡潔さですw
寒河江城は三重の水堀に囲まれていたそうです。
そう思って下の地図を見ると、何となく「そぅなんや~」と思えます。

寒河江城【3】

ただ1つ、移築門が現存しています。
文明の頃に寒河江知広が建立した澄江寺の山門です。→地図
この門は寒河江城三の丸の辰巳門(東)でした。
ただ、言われても城門には見えないのですが、薬医門です。
シャチホコ乗せても、それはそれで違和感タップリになってしまいますあせる


◆歴史◆

南北朝時代末に寒河江時氏により築かれました。

寒河江氏は大江一族で、大江広元の長男を祖とします。
ザックリ書くと、1221年の承久の乱で上皇側に味方して敗れています。
以後は、次男の長井氏が大江氏嫡流となり、大江氏が庶流扱いとなります。
寒河江大江氏の宗家は吉川姓を名乗り、その末弟が寒河江を与えられました。
その初代から寒河江を領地としていましたが、ずっと鎌倉住まいでした。
当主が領地の寒河江に下向したのは、南北朝時代も終わり頃です。
1368年、大江時茂は斯波氏と戦い、一族61名が自害する大敗を喫しました。
その5年後、大江時茂は子に北朝方に和を乞うよう言い残して没しました。
跡を継いだ子は遺言に従い、子を人質として鎌倉に送りました。
寒河江時氏は、この頃から寒河江姓を名乗り始めました。

1560年、最上義守・義光父子に攻められました。

最上氏・大宝寺氏との同盟締結が不調に終わり、最上軍に攻められました。
この時は最上軍を撃退しましたが・・・
この頃から分家の溝延氏・白岩氏・左沢氏などが独立傾向を示し始めました。

1574年、落城寸前まで追い詰められました。

最上義守・義光父子が争い、寒河江兼広は最上義光に味方しました。
一方、独立傾向を示していた一族は、揃って最上義守に味方しました。
これは、最上義守に味方した伊達輝宗が上山城を攻め落としたためです。
優勢な伊達方であることを示そうと、寒河江氏の分家が寒河江城を狙いました。
寒河江城は三の丸と二の丸が攻め落とされ、寒河江兼広は降伏。
紆余曲折あったものの、最上義光は伊達輝宗と和議を結びました。
その後、最上義光は和議を破って伊達方に夜襲を掛けました。
寒河江兼広が最上義光に接近する動きを見せたため、伊達輝宗が挙兵。
最上軍と一戦交えた後、両者が和睦したことで寒河江城は命脈を保ちました。

1584年、寒河江氏が滅びました。

1582年、寒河江兼広の没後、家督を巡って最上義光と揉めました。
その前に大江氏宗家から娘婿を迎え、寒河江高基が家督を継ぎました。
しかし、最上義光の子・義康を娘婿に迎える約束があり、当然揉めました。
最上義光は当時、大宝寺氏を攻めており、寒河江氏は大宝寺氏に援軍を派遣。
しかし、援軍が到着するより前に、大宝寺氏が滅ぼされてしまいました。
最上義光は間髪入れずに寒河江城を攻め寒河江城は落城。
寒河江高基は自害し、寒河江氏は滅びました。

文禄年間に最上義康が城主となりました。

寒河江氏滅亡後、寒河江は最上義光の直轄地となりました。
その後、文禄年間(1592-96)に、最上義康に寒河江が与えられました。
最上義康は最上義光の嫡男で、英邁な気質もあり最上家を継ぐはずでした。
しかし、関ヶ原の戦の後、両者の近臣同士による讒言が始まりました。
里見民部の讒言を信じた最上義光により、最上義康を高野山へ追放。
その道中、最上義光の命令を受けた伏兵により射殺されました。
遺品からは父の武運長久を願った日記が出てきたそうで・・・
最上義光は激しく後悔したと伝わります。

1609年まで最上家親が城主でした。

兄・最上義康追放後、弟の最上家親に寒河江が与えられました。
最上家親は父の没後、最上家の当主となります。

1614年、廃城となりました。

1609年に最上家親が山形城に移り、寒河江光俊が寒河江城主となりました。
寒河江光俊は寒河江一族で、滅亡後に最上義光に仕えていました。
1614年に最上義光が没すると、寒河江光俊は殉死しました。
以後、寒河江は最上家の直轄地となり、寒河江城は廃城となりました。


所在地:山形県寒河江市丸内1丁目(寒河江小学校)

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