八幡館/宮城県栗原市 | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

八幡館は屯岡八幡神社になっています。
訪問日は2017年5月6日です。

八幡館【1】

城跡の西側にある栗駒中学校です。
ここにはもともとたぶん八幡館の出城的な山がありました。
駐車できそうな所が無かったのでちょっと様子を窺がいましたが・・・
まだ朝の5時ですが、生徒さんが続々集結しつつありました。
意外と早起きなんですねあせる
ということで、少し先の道の反対側の幅の広い路肩に路駐しました。

八幡館【2】

八幡館跡への入口はココです。
取って付けた感がするのは、地続きだった山が無くなったからですネw
手すりの脇には「山岡八幡宮」とかかれたプレートがあります。
(「山」に見えましたが「屯」が正解でした)

八幡館【3】

階段は人一人がやっと通れる狭いものでしたが、その上の道は広いです。
しかも、頻繁に人が通っている感じがします。
中学校の目の前なので、運動部の子達が毎日ここを走ってるのかも。

八幡館【4】

階段から3分で、道端に横堀がありました。
道に対して垂直方向なので、もしかしたら堀切かもしれません。
ここから城域に入る目印ですラブラブ

八幡館【5】

なのですが、目立った遺構も見当たらないまま、道が続きます。
先ほどの堀跡から進むこと4分で、今度はこれが現れます。

八幡館【6】

今度も道に対して垂直方向の堀で、奥の方が高くなっています。
残念ながら、こちらはちょっと草深くて、堀跡があまり見えません。

八幡館【7】

2つ目の堀跡を過ぎると、間もなく神社が見えてきます。
ここが主郭です。
神社の周りだけ、一段高くなっています。
曲輪を段で区切るだけの、古い構造のお城だったようです。

八幡館【8】

主郭にある神社です。
山の上に広大な平地が広がっています。
・・・どこの山城でも同じ事書いてそうですあせる

八幡館【9】

反対側から見た所です。
若干水平でないのは、日常的な生活空間ではなかったからでしょうか?

八幡館【10】

社殿の真正面には、下りる道があります。
メインの参道はこちらですねあせる
こちらも足繁く人が通っている形跡があります。

八幡館【11】

平坦な事以外には城跡らしさも感じられないまま、鳥居に到着。
ここから先は下り坂となります。

八幡館【12】

何か堀や土塁的なものは無いかとしばらく進んでみましたが・・・
見事なまでに、何も見当たりませんでした。

八幡館【図】
拡大表示

訪城記を書くにあたり、色々ググってみました。
ここを紹介してる方は少なかったです。
そんな中、栗原市役所様による発掘調査の報告書が出てきました。
(タダでPDFをダウンロード出来ました)
詳しい歴史なんかが書かれているのかな?と期待したのですが・・・
歴史についてはほぼ全く触れられていませんでしたあせる
その代わり、縄張図が出てきました。
売り物ではなさそうだったので拝借します恋の矢
私が通って来たのは、左から入って真ん中に至り、そこから下へ。
そのルートで描かれているのは、竪堀が2本だけです。
・・・竪堀だったんですねwww


◆歴史◆

延暦年間(782~806年の間)。坂上田村麻呂が陣を構えました。

坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際、付近に陣を構えました。
これがこの辺りの地名である「屯岡」の由来なのだそうです。
坂上田村麻呂が蝦夷を討伐したのは、793年と801年の2回のようです。
Wikipediaで坂上田村麻呂の項を読んだ限りでは、そんな感じです。
それ以外にも、戦ではないものの陸奥には何度か来ています。
屯岡八幡宮の社伝では、この時に八幡神社が創建されたそうです。

天喜年間(1053~58年の間)、源頼義・義家父子が戦勝祈願しました。

この期間内では、1056年に安部軍と戦闘を開始した時の事と思われます。
以下ザックリ経緯を書くと・・・

1051年、源頼義が陸奥守となり陸奥に下向
1056年、任期満了により帰京中の源頼義を安部貞任が襲撃
1057年、黄海の戦で源氏軍が6騎にまで討ち減らされる大敗北
1061年、任期満了により源頼義は帰京
1062年、後任の高階経重が職務放棄で解任され、源頼義が陸奥守に再任
1062年、源頼義が出羽の清原氏の援軍を得て安部貞任を滅ぼす
といった感じです。

この中で1062年に源氏軍が清原軍と合流したのが、実はココです。
源氏軍3千、清原軍1万が集まって軍団の編成を行いました。
なので「康平5年(1062年)」だったらしっくり来るんですけどねあせる

石川氏が城を築きました。

安部氏討伐後、八幡館を与えられた石川為重が伏牛城を築きました。
伏牛城は、南側の出城っぽい所を指すようです。
石川氏は福島の石川氏とは全く別の家で、河内源氏の石川氏です。
石川源氏は源義家の五男・源義時を祖とします。
ただ、ココに来た石川為重とのつながりがさっぱりわからず。
石川氏はその後、3代目の石川重道が奥州藤原氏に仕えました。
そして、6代目の石川景親から葛西氏に仕えたそうです。
1590年、17代・石川重久の時に奥州仕置きで領地を失いました。
石川重久はこの時に帰農したと伝わります。


所在地:宮城県栗原市栗駒八幡字八幡(屯岡八幡神社)

宮城県の城跡/なぽのホームページを表示