百目木城/福島県二本松市 | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
百目木城は塩松石川氏の城でした。
訪問日は2016年8月3日です。

【1】百目木城

城についての説明板が、保育園跡の入り口にあります。
場所がわかりやすいよう、ちょっと引いて撮っています。

【2】百目木城

百目木城は石橋四天王の一人である石川弾正の城でした。
ということで、この辺りの城ではかなり大きい部類です。
あぁ、ここから行けるんだな♪と、期待が膨らみます。

【3】百目木城

保育園跡です。
百目木名所と書かれていますが・・・
保育園跡であり、小学校跡でもあるようです。
城跡の入口にある平坦地ですが、番所的なものがあったのでしょうか。

【4】百目木城

さて、城の説明板があったので、ここから行けると思いましたが・・・
こっちが城跡だよ的な案内は無し。
どこから行けるんだろうと思ったら、端っこにそれっぽい所が。
とりあえず、他に選択肢が無いので進みます。

【5】百目木城

すると、またしても「百目木名所」の標示が。
ここは「旭村役場 名主宅跡」と書かれています。
この家は人が住んでいる気配は無く、空き家のようです。

【6】百目木城

相変わらず案内はありませんが、山中へと歩いた跡が続きます。

【7】百目木城

奥へ進むと、周りを山で囲まれた所に着きました。
実感はありませんが、すでに城内に入っています。
南側が開けた馬蹄形の地形で、殿谷戸のような感じです。

【8】百目木城

道?は高い方へ向かって続いています。
やっぱりこっちで合ってるんだラブラブ

【9】百目木城

ここの城の特徴なのか、所々に平らな場所があります。
この1つ1つが曲輪なのでしょうが、そう言われても?な感じですあせる

【10】百目木城

まぁそれでも、道というか、歩いた跡が更に続きます。
・・・ここ歩く人いるんですねあせる
と、私が言うwww

【11】百目木城

斜面にも所々にこんな平らな場所が点在します。
畑があるでもなく続く道?は、城キチ達が歩いた跡のようです。
ここを訪ねる人が結構いるようです。

【12】百目木城

歩いた跡はどんどん上へ上へと続きます。

【13】百目木城

その行き止まりがココです。
特に曲輪っぽさもない、荒れ果てた藪に囲まれました。
歩いた跡が続いていたので期待したのですが・・・
ここで終わると、誰が何の目的で来たのか?になります。
・・・私もその1人に入っているんですけどあせる

【14】百目木城

かなり上の方に来てはいるのですが、歩いた跡はここまで。
まだ城跡らしさは感じられず、このままではただの山歩きに。
もう頂上に近いハズと思ってキョロキョロすると・・・
見えましたw

【15】百目木城

最後はライトな竹藪を5メートル程直登したら、畑に出ました。
ここが一番高いようです。
平坦地ではありますが、土塁に囲まれた感じはありません。
ない、というか、わかりませんでしたあせる

【16】百目木城

確か主郭には城址碑があったハズ・・・
そう思ってウロウロしてみましたが、あったのは畑と藪だけでした。
この草の奥にあるかも?とは思いつつ、突撃する勇気はありませんでした。

【17】百目木城

そうしてキョロキョロしていたら、ありました。
人工的に造られた通り道、ありました。
これ以上探っても何も見つかりそうにないと諦め山を下ることに。

【20】百目木城

城跡らしさといえば、曲輪っぽい平坦地だけでしたが・・・
ここ、虎口っぽく見えますラブラブ

【18】百目木城

こちらはちゃんとした道が麓までありました。
その入口がココです。
ここにある案内は「愛宕様、愛宕神社」でした。

【19】百目木城

この山道への入口はココです^^


◆歴史◆

塩松石川氏の城でした。

築城時期は不明ですが、室町時代に塩松石川氏の居城でした。
塩松の石川氏は、三芦城を本拠とした石川氏の庶流です。
17代目当主の三男から派生したそうですが・・・
色々ググってみると、ちょうど足利尊氏の時代でした。
塩松石川氏が仕えた石橋氏が陸奥に来たのがこの頃です。
・・・と、何となくそうかな?といった感じです。
当時、石橋氏は北朝方で、南朝方の北畠氏や白河結城氏と争いました。
本家の陸奥石川氏も北朝方でしたので、まぁ、そういう事かと思います。

塩松石川氏は石橋氏の重臣となり、石橋四天王と呼ばれていました。
石橋氏は将軍家の一門として、高い家格を誇りました。
しかし、時代とともに衰え、1550年にクーデターが起こりました。
石橋尚義が四本松城内に監禁され、石橋四天王が実権を握りました。
首謀者は大内義綱で、石川有信も同調しました。
以後、石橋四天王は南の田村氏に従い行動するようになりました。

1583年、大内定綱に攻められました。

大内定綱は1579年、田村清顕とともに岩城常隆を攻めました。
しかし、この時の軍中での騒動の裁定を巡り対立。
大内定綱は田村家を離れ、蘆名家を頼るようになりました。
この時に石川弾正は大内定綱と違う道を歩み始めたようです。
蘆名家は田村家と対立していました。
その局地戦として、大内定綱が石川弾正の百目木城を攻めました。
この時は石川弾正が城を守り切っています。

田村家は伊達政宗に一人娘を嫁がせており、同盟関係にありました。
この時はまだ、伊達家と蘆名家につながりがありました。
そのため、伊達家が蘆名家に従う大内定綱に反撃することはありませんでした。

1584年、蘆名義広が家督を継ぐと、伊達家との関係が切れました。
蘆名家は伊達輝宗の次男に家督を継がせる約束をしていましたが・・・
家督を継いだのは、伊達家の宿敵・佐竹家から来た養子でした。
また、大内定綱が伊達家に従うとの約束をあっさり反故にしました。
そのため、伊達政宗が大内定綱を攻め、小手森城で撫で斬りを行いました。
この戦の功により、石川弾正に小手森城が与えられました。

1588年、伊達軍に攻め落とされました。

伊達政宗は大崎家の内紛に介入し、敗北しました。
これを好機と捉え、反伊達勢力が一斉に蜂起しました。
蘆名義広は相馬義胤を誘い、伊達領南部の二本松に侵攻しました。
伊達軍の主力は依然として大崎・最上連合軍と対戦中でした。
そのため、二本松城に籠る伊達軍は600人程しかいませんでした。
この危機的状況に接し、石川弾正が相馬義胤方に寝返りました。

しかし、圧倒的劣勢の中、二本松城の伊達成実は猛攻に耐えていました。
そんな中、蘆名家に従っていた大内定綱が伊達軍に寝返りました。
大内定綱も蘆名家中での扱いに不満を抱いていたようでした。
さらに伊達軍主力も合流し、蘆名・相馬連合軍を撃退しました。
この時、伊達政宗が百目木城を攻め落としています。
石川弾正が戦死したという誤報が流れる程激しい城攻めだったようです。
敗れた石川弾正は、相馬義胤を頼って落ち延びました。
百目木城は伊達家臣・鬼庭綱元が城主となりました。

1590年、廃城になったようです。

豊臣秀吉による奥州仕置きにより、伊達政宗は多くの領地を没収されました。
没収されたのは大名間の私闘を禁じた惣無事令発令以降に得た領地です。
この時に会津をはじめ、塩松地方も没収されました。
城主だった鬼庭綱元は柴田郡の沼辺城へ移りました。
おそらくこの時に廃城になったものと思われます。


所在地:福島県二本松市百目木字本舘

福島県の城跡/なぽのホームページを表示

なぽさんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

Ameba人気のブログ