赤館/福島県棚倉町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
寺山館の登城路確認ついでに行ってきました!
立花宗茂ラブラブも居たことのある赤館です。
訪問日は2019年3月9日です。

【1】赤館

赤館は脇を通る国道に「赤館公園」の案内があります。
道を上がると、その名も「赤館旅館」があります。
こうやって横から見ると、帯曲輪っぽい所にあります。

【2】赤館

訪問当日は、旅館のすぐ先に「伐採作業中」の看板がありました。
道は一方通行なので、そのまま進んだら戻れないかも・・・
そう思って、すぐ脇の何も書いてない空き地にバイクを停めました。
公園の駐車場かと思いましたが、そうではなかったかも?あせる
しばらくはこんな感じの道ですが、横堀っぽく見えます。

【3】赤館

横堀っぽい道を進むと、赤館公園の入口に着きました。
ここはハッキリわかる入口です。
おそらく主郭の虎口がここにあったのでしょうが・・・
城キチが贔屓目に妄想力働かせても、往時の様子が思い浮かびませんあせる

【4】赤館

入口から上がった先に駐車場があり、その奥に説明板があります。
文字ビッシリな上に、縄張図までついている超豪華なヤツです合格

【5】赤館

もちろん、イタダキますラブラブ
現在地のすぐそばに「虎口」の文字がありますが・・・
全くそんな雰囲気は感じられない程に、公園になっています。

【6】赤館

主郭の端からは、棚倉の街並みがとてもよく見えます。
城主様気分が味わえる所ではあります。

【7】赤館

帯曲輪は、バッチリその名残を留めています。

【8】赤館

主郭の現在の様子です。
ここが城跡だと言ったら、100人中100人が「え?」と言いそうですあせる

【9】赤館

そんな感じで完全にただの公園ですが、東端に城址碑があります。

【10】赤館

東側から見た帯曲輪です。
この右手前には大きなショベルカーが陣取っていました。
バイクで深入りしなくてよかったです。

【11】赤館

主郭の北端部です。
一段高くなっており、櫓台だったようです。
ここには「神武天皇遥拝所」と彫られた石碑があります。
南朝ゆかりの城だったという事ですね。
白河結城氏は白河親朝が南朝方で、結城氏の惣領とされました。

【12】赤館

主郭は完全に公園でしたが、城跡らしさを求めて北側へ。
まずは、大型車専用駐車場をめざします。

【13】赤館

訪問当日は伐採作業の資材置き場になっており・・・
地面には、ショベルカーのキャタピラで蹂躙された跡が生々しかったです。
この標示の辺りから、北の出っ張りへ下りられます。

【14】赤館

私でもあんまり入りたくない感じの藪でしたが、頑張って進みました。

【15】赤館

先端部から見たら、眼下にはかなり深い横堀が巡っていましたラブラブ
これは下りて見なければビックリマーク

【16】赤館

出っ張りの上の段の城塁に沿って進むと、下りる所がありました。
ここで横堀を隅から隅まで堪能ラブラブ
やっぱり、この光景は萌えます。

【17】赤館

おまけは、高橋紹運のお墓です。
本命で訪ねた寺山館の登城口付近に高橋紹運のお墓の案内がありました。
(この案内標示のある場所の地図
息子の立花宗茂が棚倉に来たので、その時に建てたようです。
矢印に従ってそっち方向へ進みました。
しかし、何も見つけられずに、大きな道に出てしまいました。
もしかしたら、この奥にあったのかもしれませんが・・・
近くにはあるようですあせる


◆歴史◆

文字ビッシリ説明板に書かれていた内容に沿って書いてみました。

鎌倉時代は伊達氏の領地でした。

ググっても詳細は出て来ませんでしたあせる
飛び地だったそうです。

南北朝時代に白河結城氏の領地となりました。

鎌倉幕府討幕に功があったとして、結城宗広に領地が与えられました。
だぶんその時だと思いますが、棚倉も白河結城氏の領地となりました。
元々の領主であった伊達氏も南朝方だったので、この辺の事情は?ですあせる
赤館は、伊賀から来た伊賀隆定の次男・赤館定澄が城主となりました。

1510年、佐竹義舜が奪った?

説明板では、1510年に佐竹氏が白河結城氏の依上保を奪取。
さらに北上し、赤館以南の東館や羽黒館、流館を支配。
1571年に白河義親が反撃に転じ、佐竹氏が赤館を放棄したとあります。

しかし、周辺の歴史と照らし合わせると、ちょっと疑問が沸きます。
ずっと南にあった東館は、1541年まで白河結城氏の城でした。
この時の佐竹氏との和睦条件により、東館が廃城となっています。

その後、佐竹家中で内紛が続き、攻めて来ない時期がありました。
しかし、内紛を乗り越えた佐竹氏は、1560年頃から再び攻めて来ました。
佐竹義重は1567年、赤館より北にあった石川氏の本拠を攻略しています。
赤館については触れられていませんが、通り道だった筈です。
そのため、この時までに赤館は佐竹氏の城だったと考えられます。
だとすれば、「1571年に白河義親(=小峰義親)が奪還」は頷けます。

1575年、佐竹軍が攻め寄せたものの、白河結城・蘆名連合軍により撃退

この辺りは色々ググっていると、真逆の事が出てきます。
1574年に白河結城氏が、すぐ北の石川郡を制圧しました。
この時に石川晴光が佐竹義重を頼り、領地を奪還しています。
つまり、石川氏の救援のため佐竹軍が来て、白河結城軍を破っています。

1575年に白河結城氏で代替わりがあり、小峰義親が謀反を起こしました。
佐竹軍が攻め込んだのは、この隙を突いての事と思われます。
小峰義親は佐竹軍に降伏し、以後はその傘下となります。
赤館はこの時に佐竹軍に攻め落とされています。

1577年には蘆名・田村連合軍とともに佐竹軍と戦いました。
この戦の和睦条件として佐竹義重の次男・義広を養子に迎えています。
その後、白河義広は1587年に跡継ぎの絶えた蘆名家を継いでいます。
白河結城氏は1589年まで、佐竹氏に従うこととなります。

1590年、伊達政宗が佐竹軍と対峙した時の前線基地になりました。

1589年、摺上原の戦で伊達政宗が蘆名軍を破りました。
蘆名義広は実家の常陸に逃げたため、蘆名家は滅亡。
すると、周辺勢力とともに小峰義親も伊達政宗に鞍替えしました。
赤館が白河結城家、寺山館が佐竹家の前線基地となっています。
寺山館北側の巨大な4本の堀切は、こういう事情で掘られたんですね!

奥州仕置きで佐竹領となりました。

1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼしました。
この戦に際し、伊達政宗は傘下の諸家の参陣を禁じました。
そのため、豊臣秀吉による奥州仕置きで、白河結城氏は改易されました。
赤館以南の南郷と呼ばれる地域は、佐竹氏の領地となりました。
小峰義親は蒲生氏郷を頼りますが、領地を回復することは出来ませんでした。

1600年、佐竹氏が秋田へ移され天領になりました。

佐竹義昭は関ヶ原の戦の際、どちらに味方もせず兵を出しませんでした。
そのため、戦後に徳川家康により領地を没収され、秋田に移されました。
南郷一帯は、徳川家直轄の天領となりました。

1609年、立花宗茂が城主となりました。

立花宗茂は元々は筑後の武将で、関ヶ原の戦では西軍でした。
九州征伐で豊臣軍に助けられた恩があったからでした。
その後は領地を没収され、肥後・京で浪人をしていました。
1604年には本多忠勝の推挙により、御書院番頭として徳川家に仕えました。
まもなく徳川秀忠の御伽衆となり、棚倉を領地として与えられました。
はじめは1万石でしたが、加増を繰り返して最終的には3万5千石となります。
大坂の陣では豊臣方の動きを予言して、何度も的中。
この功により、故郷である筑後10万石に復帰しています。

1627年、廃城になりました。

1622年、丹羽長重が棚倉の領主となりました。
丹羽長重は丹羽長秀の長男です。
越前・若狭と加賀2郡123万石のお殿様でした。
その後、豊臣秀吉に潰され、関ヶ原では西軍につき不運の連続でした。
しかし、血筋の良さが幸いし、常陸国で1万石の大名に復帰。
その後、大坂の陣での功により、徳川秀忠の御伽衆に加えられました。
メンバーは細川興元、佐久間安政、立花宗茂と丹羽長重です。
御伽衆とは、雑談相手になったり、経験談を話す役だったそうです。
・・・江戸時代版「しくじり先生」っぽいメンバーですね。
御伽衆として気に入られたのか、1622年に1万石→5万石に加増。
この時に領地として与えられたのが棚倉でした。
しかし、5万石の城としては手狭だったようで・・・
新たに総石垣の棚倉城を築き始めました。
そして、棚倉城が完成した1627年、赤館は廃城となりました。


所在地:福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字風呂ケ沢(赤館公園)

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