有嶺城/宮崎県西都市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
有嶺城はほぼ原形を留めている山城です。
訪問日は2018年12月29日です。

【1】有嶺城

城跡は県道312号線の西側にあります。
県道から「春日の大いちょう」の案内がある細道に入ります。
すると、すぐに派手な切通があります。
切通に見えますが、断面が重機モノっぽくありません。
たぶんですが、堀切ですねラブラブ

【2】有嶺城

大堀切っぽい切通を過ぎると、100メートル程でヘアピンカーブ。
普通に山肌が迫る道は、どんどん下って行きます。
城跡の入口どこだ?と目を皿にして見ていると・・・
1か所だけ「もしかしたら上がれるかもしれない」感じの所がありました。
何も無ければ気のせいだと思ったかもしれませんが、目印がありました!
先人のどなたか様、ありがとうございますラブラブ
(中央やや上にピンクのリボンが1本写っています)

【3】有嶺城

ここは深さ2メートル程の竪堀で、上に向かって続いています。
すでにガッツリ藪クローバーですが、地面の凹みを辿って登りました。

【4】有嶺城

登り切った所は木陰で暗く、下草ナシ。
なので、堀がとてもよく写せました。

【5】有嶺城

『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』の縄張図を見ながら探査開始。
(↑ググると、タダでPDFをダウンロード出来ます)
まずは北側の曲輪に上がりました。
先ほど登って来た竪堀は、上からだととても深く見えますラブラブ

【6】有嶺城

一番北の曲輪です。
木が生い茂っていて下草はほぼ無し。
とても歩きやすかったです。
この曲輪はw

【8】有嶺城

時計回りに外周を歩いた突き当りがここです。
真下に先ほどの切通があります。
かなりの高さがあります。

【7】有嶺城

切通側に土塁はありませんが、曲輪中央に向かうと土塁があります。
この土塁、曲輪の真ん中を隔てるように南北に通っています。
端にはなく、真ん中を仕切る土塁はチョット珍しいです。
この土塁、切通の向こう側にも続いていました。
上記報告書では、そっちにも城郭遺構があると書かれています。

【9】有嶺城

登って来た堀を越え、2つ目の曲輪に入ります。
この堀沿いに虎口があります。

【10】有嶺城

2つ目の曲輪の虎口脇に、結構高い土塁があります。
1つ目の曲輪は堀沿いに土塁はありませんでした。
こちら側の曲輪の方が重要度が高いという事になります。

【11】有嶺城

2つ目の曲輪は、1つ目の曲輪と違って土塁で囲まれていました。

【12】有嶺城

土塁に沿って進んで行くと、高さを増した土塁が曲がっていました。
という事は、ここが曲輪の端ということです。

【13】有嶺城

土塁に沿って進むと、ポコっと凹んだ所がありました。
どうやらここが虎口のようです。
チョットというか、かなり通り辛い感じになっていますクローバー

【14】有嶺城

虎口を越えた所に堀切様がいらっしゃいましたラブラブ
草の薄い所を撮ってますクローバー

【15】有嶺城

次の曲輪も土塁がありました。
ただし、3つ目の曲輪で土塁があるのは東側だけです。
反対側は猛烈な笹薮です。
無理やり潜ってみたもののただの端っこでした。

【16】有嶺城

土塁に沿って進んで行くと、猛烈な藪に行く手を阻まれます。
この藪を避けながら進むと、左側(東側)に下る道がありました。
道だと思ったのですが、L字形に曲がって行き止まり・・・
どうやら虎口のようです。
上記報告書では、ここが大手口とみられると書かれています。

【17】有嶺城

虎口の次の曲輪も、東側には低い土塁が続きます。
この土塁がまた右へ曲がると、土塁がかなり高くなりました。

【18】有嶺城

土塁に登ってみると、かな~り深い堀切様がいらっしゃいましたラブラブ
あまりに深いので、下りるのは無理じゃないかと思いましたが・・・
人間、何でも意志の力で何とかなるもんですw

【19】有嶺城

5つ目の曲輪もかなり草深く、根性で外周に沿って進みました。
すると、ぽっこり凹んだ虎口がありました。
向こう側がちょっと入りづらい雰囲気がクローバークローバークローバー



ここも意志のチカラとやらで突入です。
もはや写真を載せる意味あるのか?というレベルですが・・・
肉眼では横堀があるのが何となくわかりました。

【20】有嶺城

上記報告書の縄張図は、この先が描かれていませんでした。
気になって超藪横堀の先に登ってみました。
すると、その先は断崖になっていて、城域はここで終わりでした。


◆歴史◆

建武年間(1334~38)に長友行安により築かれました。

有嶺城でわかっているのはこれだけですあせる

位置的には伊東氏の勢力圏ですが、伊東四十八城には入っていません。
という事は、その時期には使われていなかったっぽいです。
城主の長友兵庫頭行安についても何もわからずあせる

時期と地理を合わせて考えると、ここは新納院の南端に位置します。
室町時代に入ったばかりの新納院は、島津家の領地でした。
ここに島津忠宗の4男・時久が封じられ、新納姓を名乗りました。
新納院から南の一ッ葉川を越えた所が、伊東氏の都於郡城です。
そのすぐ東には、田島氏の佐土原城がありました。

1350年、畠山直顕が新納時久を破り、その領地を奪いました。
畠山直顕は室町時代初期に日向に下向した北朝方の武将です。
日下部氏や土持氏、同時期に下向した伊東氏を従え活動しました。
敵対勢力は南朝だったのですが・・・
勢力拡大の過程で島津家と利害が対立し、争うようになりました。
おそらくは新納家が、南からの侵攻に備えて築いたものと思われます。
大規模なのに歴史に登場しない事から、陣城だったのかもしれません。


所在地:宮崎県西都市岡富

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