瀬平ノ城/宮崎県日南市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
伊東四十八城のラストは瀬平ノ城です。
訪問日は2019年1月12日です。

【1】瀬平ノ城

城跡にはサボテンハーブ園がありました。
地図には「サボテンハーブ園跡」と書かれています。
それ以前に城跡だった事は、知る人ゾ知るといった感じです。

【2】瀬平ノ城

サボテンハーブ園は2005年3月に閉園し売却されました。
しかし、買収した会社も自社での開発を断念したそうで・・・
モノは言いようですクローバー

【3】瀬平ノ城

『宮崎県中近世城館跡分布緊急調査報告書I』では山頂が城跡とされます。
サボテンハーブ園がどれだけ地形を変えたのかは?ですが・・・
往時のままの地形を活かしたなら、居館と詰城のセットっぽく感じます。

【4】瀬平ノ城

サボテンハーブ園跡は立入禁止となっていて、鉄条網で囲まれています。
ググって出てくるサイト様では、山羊さんが沢山写っていました。
それもかなり以前の様子で、私が訪ねた時には見当たりませんでした。

【5】瀬平ノ城

建物のちょっと先に駐車場の案内があり、入っていく道があります。
入口は封鎖されていなかったので、もしかして!と期待したのですが・・・
50メートル程先にゲートがあり、入れなくなっています。

2017年末は前の道が通行止めで行けず。
2018年末はパンクで3時間ロスして行けず。
ようやく辿り着きましたが、城跡には入れませんでした( ノД`)
という事で、ITO48は遠くから眺めて卒業ですあせる


◆歴史◆

元弘年間(1331~34)に、矢野義元により築かれました。

矢野下野守義元が勅命により日向に下向し、七浦の領主となりました。
七浦は、青島から鵜戸神宮に通じる海岸沿い一帯のことです。
この時期に「勅命」という事は、南朝方という事でしょうか?
戦国時代、矢野氏は伊東家の家臣として歴史に登場します。

戦国時代は上別府常陸守が城主でした。

上別府常陸守は、飫肥城攻略に携わっていたようです。
清武地頭としてもその名が登場する伊東家の重臣です。

1541年、伊東義祐は飫肥城攻めに先立ち瀬平ノ城を増強しました。
この城の守将に上別府常陸守を任命しています。
1543年、伊東義祐もこの城から島津軍との戦に出陣。
島津方の烏帽子嶺砦(南の鵜戸神宮近くの山城)を攻め落としました。

1562年、伊東義祐は肝付兼続と島津家を挟み撃ちにしました。
伊東軍は飫肥城を攻め、島津忠親(豊州家)が降伏して城を明け渡しました。
この時に、上別府常陸守が飫肥地頭に任命されました。
飫肥城は半年後、島津忠親の夜襲により再び島津家の城になっています。

1568年、伊東義祐は再び飫肥城を島津家から奪いました。
この時は伊東祐兵が城主となり、上別府常陸守がその補佐となりました。

1577年、飫肥城が島津軍に奪い返されました。
この頃の伊東家では、各地で家臣が島津家に寝返りました。
伊東義祐は島津軍とまともに戦える状況になく、豊後へ落ち延びました。
瀬平ノ城は、この頃までに使われなくなったと思われます。

1951年、城跡にサボテン公園が開園しました。

はじめは峠にサボテンを植えたのが始まりだったそうです。
次第にその規模は大きくなり、やがて公園として開園しました。
城跡はこの時の造成により破壊されたとされます。
・・・見てないので何とも言えませんが
サボテン公園は日南市の観光スポットとして多くの観光客が訪れたそうです。
しかし、国道220号線のトンネルが開通すると客足が激減。
運営会社の経営不振もあり、2005年に閉園となりました。
以後、サボテンハーブ園周辺は立入禁止となっています。


所在地:宮崎県日南市富土(日南サボテンハーブ園跡)

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