三納城/宮崎県西都市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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三納城は伊東四十八城の1つで、伊東旧臣が立て籠もった城です。
訪問日は2018年12月31日です。

【1】三納城

三納城は南側の大きな平坦地と山上の主郭から成ります。
南側の平坦地に上がる道が、こんな感じにクネっています。
これ、絶対に虎口ですよね?ラブラブ

【2】三納城

南側の大きな平坦地は「平城」と呼ばれています。
平城部分は普通に住宅街になっています。
ちょっと、まばらですけど・・・
言われなければ、ここが城跡だとは感じられないレベルです。

【3】三納城

一番奥まで進むと、この石碑があります。
入口とは言いますが、平城の一番奥ですw
左側の窪みも虎口のようで、道があります。

【5】三納城

少し進むと、正面に壁のような城塁が現れます。
高さは7、8メートル程あります。

【6】三納城

ここで左側を見ると、こんなに大きな堀がありますラブラブ

【7】三納城

右側を見ると、主郭へと続く道があります。
この狭い切通し、たぶん往時からあった門の跡のように見えます。

【8】三納城

ここから先は特に遮る物も無く、あっさりした道が続きます。

【9】三納城

登り切った所です。
虎口があったと思われますが、かなり崩されてしまったようです。
入りにくくするような雰囲気があまり感じられません。

【10】三納城

虎口跡から見た主郭です。
真ん中に祠があり、その脇に土塁が見えます。

【11】三納城

上の写真の左枠外に、城跡の案内図があります。
落ち葉が積もっていたようで、泥で汚れて見えず。
ちょっとこれはパクれませんハートブレイク

【12】三納城

近くには、城址碑に標柱、説明板×2と、かなり気合が入っています。
・・・気合が入っていた、と言うべきでしょうか。
どれもかなり年季が入っています。

【13】三納城

虎口の反対側(城址碑などがある所)から見た主郭内部です。
手前三分の一程の所で段差になっています。
右端には土塁もあり、木の陰に祠があります。

【14】三納城

大きな平城から坂道を登って広い主郭に。
色々なモニュメントもあると、ここで見学を終える方もいるかと。
でも、主郭の一番奥に、こんな秘密めいた道がコッソリあります。
城キチなら、こういう所こそ攻めてみるべきポイントです。

【15】三納城

隠し通路的な所を下りた所に、1つ目の堀切がありますラブラブ

【16】三納城

ここで振り返ると、主郭の城塁が壁のように聳えます。
一見すると、ここを上がれそうには見えません。
やっぱりここは秘密の通路だったようです。
表の正々堂々とした立派な道とは対照的です。

【17】三納城

【18】三納城

細い稜線っぽい道を進むと、いくつも堀切があります。
北側は土橋のような一本道が続いています。
こちら側からの侵入にも備えていたようです。


◆歴史◆

1577年まで飯田肥前守が城主でした。

築城時期は不明ですが、飯田肥前守が城主でした。
飯田肥前守は伊東家中では名のある武将で、槍の名手でした。
島津家側の記録では、1572年の木崎原の戦で討ち取られています。
しかし、1577年にも島津軍に捕えられています。
なので、親子2代で同じ名を名乗ったのでは?とする説があります。
この時「せっかくの槍も主がいなければな~」とイジられました。
愚弄する家臣を、島津義久がたしなめたという逸話があります。

1578年、伊東旧臣が籠城しました。

豊後に逃れた伊東義祐は、大友義鎮に日向への出兵を打診。
大友義鎮は家臣団の猛反対を押し切り、日向へ出兵しました。
これに先立ち、長倉祐政が石ノ城を拠点に伊東旧臣を糾合。
石ノ城に立て籠もって島津軍の攻撃に耐えました。
長倉祐政は伊東旧臣達に策を授け、都於郡城奪還を目論見ました。
しかし、合図を間違えて大敗し、三納城に立て籠もりました。
島津軍は三納城を包囲したものの、攻めあぐねました。
そこで、わざと包囲を解いて伊東軍をおびき出し殲滅しました。

佐土原藩の城となりました。

三納城は廃城とならず、その後も島津家の城として使われたようです。
現地の説明板では佐土原藩の外城となり、1615年廃城と書かれています。
島津家の城となってからの城主は不明です。


所在地:宮崎県西都市三納

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