稲村城/福島県須賀川市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
稲村城は稲村御所の北にあった二階堂氏の城でした。
訪問日は2016年8月1日です。

【1】稲村城

「稲村城」は、稲村御所を指すこともあります。
その北の山にも城があり、こちらも「稲村城」と呼ばれています。
私は両者を区別し、公方様の居た方を「稲村御所」としました。
「稲村城」は、「稲村御所」脇の道を北上した坂の上にありました。
坂を登り切った所から左側にフェンスがあります。
その脇の山に入っていく道の奥が城跡です。

【2】稲村城

「道」と書きましたが、すぐにこうなりますクローバー
この年の夏休みはバイクで走り回っていました。
須賀川城→愛宕山館までは晴れていましたが・・・
稲村御所に着いた所で雨が降り始め、ここに着いた時には本降りでした。
ということで、雨合羽を着ていたせいか、割と抵抗なく突撃しましたw

【3】稲村城

草が茂ってはいるものの、道っぽい所は丈が低いです。
この感じだと、まだまだ奥へ進めますよね?
合羽着てますし♪

【4】稲村城

城跡っぽさは感じられず、だんだん不安になってきました。
それでもとにかく奥へ進んでみました。

【5】稲村城

すると、杉林になり下草が無くなりました。
杉林はどこも下草が少ないので、アレロパシーと思っていましたが・・・
※アレロパシー:他の草を殺す化学物質を出すこと
単純に、杉林では地表に光が届かないだけのようでしたあせる
城キチにとっては、歩きやすいし見やすいしで有難い事ですけど^^

ここから先は平坦地ですが、ただ平らな細長い地形が続きます。
平らといっても若干傾斜していて、先端はそのまま尾根になります。
曲輪、、、かな?ちがう、、、かな?といった感じです。

【6】稲村城

山上の細長い平坦地を見つけたので、何となく城跡に辿り着いた気分。
でも、何だか「本当に城跡?」感が拭えずにいました。
そんな、ちょいもや状態で元来た道を戻っていると・・・
左側(行きの右側)がちょっと気になりました。
その瞬間に見た光景を撮ったのですが・・・
ただの藪にしか見えませんねクローバークローバークローバー

【7】稲村城

雨合羽という強力な防具を装備していたので、気になった方へ突撃。
すると、その奥がどうも人工的な感じに見えました。
これが見えた時に撮った光景で、土塁が横一文字に伸びていますラブラブ

【8】稲村城

ここが城跡なのか半信半疑でしたが、土塁を見つけ狂気乱舞です(/・ω・)/
どんな形だったのか土塁を辿りましたが、よくわからず。
山林に埋もれた土塁は、高さ1メートルに満たない痕跡程度のものでした。
曲輪の形や構造がどうなのかよくわかりませんでしたが・・・
雨合羽で藪に突撃した甲斐がありました合格


◆歴史◆

築城時期などは不明です。

稲村は鎌倉時代はじめ頃から二階堂氏の領地でした。
『吾妻鏡』では、反乱の首謀者がココで誅されたと書かれています。
その乱があったのが1213年で、首謀者を誅したのが二階堂行村です。
二階堂氏といえば須賀川城ですが、その築城時期は1400年頃です。
二階堂氏は鎌倉時代前半、岩瀬郡の西部に領地を持っていました。
東部を領有していた岩瀬氏は、鎌倉時代後半にちょっと北へ移っています。
そのため、二階堂氏の初期の岩瀬郡の拠点は稲村だと思われます。
ただ、鎌倉時代は山城は流行ってなかったように思います。
はじめは御所の所で、後に詰城としてココを築いたかもしれません。

南北朝時代に南朝の城となったことがあります。

二階堂氏は、鎌倉府の政所の中枢に居た氏族です。
はじめは足利尊氏に従い、のち足利直義に従っています。
鎌倉を拠点としていたので、当然といえば当然ですけど。
南北朝時代、この辺りは南朝の方が優勢でした。
陸奥といえば、南朝方の雄・北畠親房です。
1340年、北畠親房により二階堂氏の岩瀬郡21ヶ村が没収されました。
この領地はそっくりそのまま、南朝方の白河結城氏に与えられました。
しかし、1343年に北畠親房は奥州から吉野に撤退。
これ以降は、足利尊氏方と足利直義方の争いになります。
白河結城氏は、足利直義方の吉良貞家とともに伊達家と戦いました。
二階堂氏も足利直義方なので、割とすぐに領地を返してもらえたようです。

1404年、稲村と須賀川に二階堂氏が併存したようです。

安積・田村・岩瀬郡の豪族達が、一揆契約を結びました。
これは、1399年に赴任した稲村公方を補佐するためのものでした。
この傘連判状に須賀川刑部少輔行嗣と稲村藤原満藤の名があります。
「行」は二階堂氏の通字であり、「藤原」は二階堂氏の本姓です。
稲村公方が赴任した時に、須賀川城が築かれたとする説があります。
稲村城は稲村御所の詰城として、二階堂氏が守ったのかもしれません。

1441年、二階堂左衛門尉と稲村下野入道が処刑されました。

1439年に永享の乱が終結し、鎌倉公方・足利持氏が自害しました。
その翌年、足利持氏の子を奉じて結城氏を中心に蜂起しました。
この戦は結城合戦と呼ばれ、幕府方が勝利し結城氏方が敗れました。
二階堂氏は結城氏方として戦い、当主が処罰されたものと思われます。

二階堂為氏が家督を継ぎ、須賀川に代官を送る流れにつながりました(^^)。
以後「稲村」と付く二階堂氏が登場しなくなります。
この時に滅ぼされ、二階堂本家が須賀川に移ったものと思われます。


所在地:福島県須賀川市稲字新城館

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