須賀川城/福島県須賀川市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
須賀川城は二階堂氏の城でした。
訪問日は2016年8月1日です。

【1】須賀川城

城跡の北側にある神炊館(おたきや)神社です。
幟は天満神社ですが、石碑は神炊館神社です。
神社ではこういう事が時々あって、目印にすると迷いますあせる

【2】須賀川城

上の写真の参道をまっすぐ進んだ所にある神社の社殿です。
お猿さんが目・耳・口をそれぞれ押さえ、その脇に「開運」の文字。
見ザル、聞かザル、言うザルが開運のコツって事でしょうか?
サルでもわかる、大人の社会のルールってヤツですねw

【3】須賀川城

開運のコツを学んだ所で回れ左すると、ここに土塁があります。
早速ご利益がありました合格

【4】須賀川城

そこから境内を南へ進みます。
端っこの方は市街地が迫っており、住宅街と接しています。
途中こんな所がありますが・・・
住宅の所が堀跡でしょうか?
ちょうど家の所だけ、周りよりも窪んで見えます。

【5】須賀川城

城内の北西部分です。
鎮守の杜のような公園のような、こんもり高い平地になっています。
ここが本丸跡だと思っていましたが・・・
某大御所様、図の方位が90度間違ってますあせるあせるあせる

【6】須賀川城

西端に寄ると、城跡っぽさの残る場所もあります。
虎口の跡のように見えます。

【7】須賀川城

西側はこんな感じの段差になっており、城塁の名残があります。

【8】須賀川城

長松寺墓地の中心付近に、大きな白いモニュメントがあります。
そのすぐ脇に、とても目立つ細長い土盛りがあります。
これが須賀川城の遺構で見どころとなっている土塁です。

【9】須賀川城

その目の前にある「須賀川城の土塁と空堀」の説明板です。
大ざっぱに要約すると、
・1448年に二階堂為氏により築かれ、9代続いた。
・1589年に伊達政宗に攻められ落城し、堀が埋められた。
・長松寺境内と神炊館神社境内にわずかに堀と土塁が残っている
・ココの堀と土塁を発掘調査して、だいたいの規模がわかった
という事が書かれています。

【10】須賀川城

土塁の裏に回ると土がむき出しに。
何となくですが、崩されているように見えますあせる
上に立っている案内は、裏からは土塁のものかと思っていました。
そこに書かれている文字は「相楽等躬の墓→」でした。
きっと有名な方だったんですね。

ところで、これ書き始めて知った衝撃の事実。
それは、本丸跡を見ていないことでした。
Googleの地図見てると、私が訪ねた所のちょっと東に城跡マーク。
そこをストビューで見ると、城址碑と案内図がありました_Π...〇
これから訪ねる方は、東側の二階堂神社も訪ねて下さい(´;ω;`)


◆歴史◆

二階堂氏の城でした。

調べれば調べる程?が増えるので、ザックリにしますあせる

須賀川はかつて岩瀬郡に属し、鎌倉時代はじめは岩瀬氏の領地でした。
経緯は?ですが、鎌倉時代後期に岩瀬氏が下宿御所館に移りました。
代わって須賀川に入ったのが二階堂氏です。

築城の時期は、以下の通り諸説あります。

①1399年、二階堂行続による築城説
鎌倉公方・足利持氏が陸奥支配のため弟を稲村公方として派遣。
この時、その配下であった二階堂行続が城を築いたとする説です。

②1440年頃、二階堂治部大輔による築城?
この頃に12歳の二階堂為氏が本家の家督を継ぎました。
この時に須賀川に代官として派遣されたのが、一族の治部大輔です。
しかし、治部大輔は租税を本家に送らず、勝手に城まで築いたそうです。
これが須賀川城ではないか?というのが、私の推測です。

③1448年、二階堂為氏による築城説
二階堂為氏は1444年、治部大輔が背いたため須賀川に下向しました。
治部大輔は二階堂為氏を城に入れず、追い返しました。
そのため二階堂為氏は、稲村御所跡付近のお寺に隠棲。
この辺りの有力者である和田城主・須田秀一を頼りました。
翌年、治部大輔の方から二階堂為氏に和睦の申し出がありました。
条件は娘を二階堂為氏に嫁がせ、3年後に城も明け渡すという内容でした。
二階堂為氏はこの条件を受け入れ、和睦しました。
しかし、3年経っても約束が果たされず・・・
二階堂為氏は須田秀一を大将として、治部大輔を滅ぼしました。
この時に二階堂為氏が築いたとする説です。

なぜ二階堂治部大輔は、本家を継いだ二階堂為氏に従わなかったのか。
理由はわかりませんが、当時の二階堂家は大変な状況でした。
二階堂氏は鎌倉時代、幕府政所のナンバー2でした。
室町時代に入っても、二階堂氏は鎌倉府の要職に就いていたようです。
3代目鎌倉公方・足利持氏は、陸奥に稲村御所を設置し弟を派遣。
稲村公方・足利満貞に、周りの勢力同様、二階堂氏は従いました。
1439年、足利持氏が乱を起こし自害しました。(永享の乱)
1440年、結城合戦と連動し、篠川公方が襲われ殺されました。
結城合戦は、足利持氏を支持したグループが起こした乱です。
篠川公方は兄の足利持氏と反発し、幕府寄りの立場でした。
篠川御所は、須賀川のすぐ北にありました。
当時、須賀川周辺は足利持氏の元支持者が多かったようです。

二階堂氏は永享の乱で領地を没収され、二階堂為氏が家督を継ぎました。
状況から前当主が足利持氏を支持し、乱で命を落としたものと思われます。
この時に二階堂治部大輔が、代官として須賀川に送られました。
本家は幕府に恭順したものの、須賀川の周りは足利持氏派だらけ・・・
二階堂治部大輔が従わなかったのは、こんな状況だからかもしれません。

1566年、蘆名盛氏に敗れ、配下となりました。

二階堂氏は西隣の蘆名氏と領地争いを続けていました。
この年、松山城と横田城が蘆名軍に奪われ、城主が生け捕りにされました。
二階堂盛義は和睦のため、嫡男・平四郎(4)を人質として差し出しました。
この平四郎が後の蘆名盛隆です。

1582年、大乗院が女城主となりました。

1581年に二階堂盛義が没し、次男の二階堂行親が家督を継ぎました。
しかし、翌年に二階堂行親が13歳の若さで世を去りました。
男子が絶えたため、二階堂盛義の未亡人・大乗院が城主となりました。
実質的な政務は、家老の須田盛秀が代行しました。
大乗院は伊達政宗の叔母にあたる伊達輝宗の妹・阿南(おなみ)です。
伊達政宗は伊達家に味方するよう迫りますが、大乗院は拒否します。
この頃から、二階堂家中は伊達派と佐竹派に分裂し始めました。

1589年、伊達政宗に攻め落とされました。

伊達政宗が摺上原の戦に勝ち、蘆名家が滅びました。
二階堂軍は蘆名軍とともに伊達軍と戦っていました。
伊達政宗は何度も大乗院に降伏を迫りましたが、断固拒否。
そのため伊達軍が二階堂領に攻め入りました。
この時、二階堂家中の伊達派である保土原行藤が伊達軍に寝返りました。
そのため伊達軍は二階堂領内を難なく進み、須賀川城を攻めました。
佐竹・岩城両家からの援軍を合わせて600人で籠城しますが・・・
劣勢を悟った城代の須田盛秀は、城に火を放って和田城に撤退。
大乗院は、嫁婿である岩城常隆を頼って落ち延びました。
須賀川城は、伊達政宗の叔父・石川昭光が城主となりました。

1627年に廃城となりました。

ここから先は、須賀川城というより会津藩の歴史となります。
時期は不明ですが、須賀川は江戸時代に白河藩領となります。

1590年、豊臣秀吉による奥州仕置きが行われました。
この時、小田原征伐に参陣しなかった石川昭光が改易されました。
伊達政宗は辛うじて改易は免れましたが、旧二階堂領は没収されました。
会津の旧蘆名領および旧二階堂領は、蒲生氏郷に与えられました。

1598年、蒲生秀行が宇都宮に移され、上杉景勝の城となりました。
1601年、上杉景勝が米沢に移され、再び蒲生秀行の城となりました。
1627年、加藤嘉明が会津藩主となり、廃城となりました。

須賀川は江戸時代は白河藩領でしたが、いつからなのかが?でした。
結局、いくらググってもわかりませんでしたが・・・
白河藩の石高は12万石前後で、大きな変動も無く推移しています。
一方、会津藩の石高は1627年に60万石から40万石に減っています。
そのため、1627年の立藩時から須賀川は白河藩領だったかもしれません。


所在地:福島県須賀川市諏訪町(神炊館神社、長松院)

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