蓬田館/福島県平田村 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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蓬田城は小学校の隣にある丘にあった城館です。
訪問日は2016年8月1日です。

【1】蓬田館

西側の陣屋跡から見た蓬田館の遠景です。
小学校の隣なのに周りが開けていて、こんな風に撮れます。
曲輪の段がはっきり見て取れて、登る前からウキウキします。

【2】蓬田館

西隣の平べったい空き地が陣屋の跡です。
1590年の奥州仕置きで廃城後、年月が経ってから陣屋が置かれました。
城館は、時代によって用途や場所が変わるのが常です。
ここではそれが、ひと目でわかります。

【3】蓬田館

蓬田館跡と道1本隔ててあるのが小学校です。
今まで見て来た所ではたいていの場合、お城を意識したデザインでした。
名前が「蓬田城」だったら、多少なりともそうなったかもしれません。

【4】蓬田館

登城口は、小学校の真正面にあります。
登城路はとてもよく整備され、公園らしく歩きやすくなっています。

【5】蓬田館

戦国時代まで使われた城館ですが、構造はシンプルです。
原形をとどめているのかどうかは?ですが・・・
見た目的には南北朝時代頃の、曲輪を連ねただけの造りに見えます。

【6】蓬田館

最上段が主郭で、小さな祠が2つ並んでいます。
鳥居にも、2つの神社の名前が並べて書かれています。

【7】蓬田館

構造がシンプルだと書きましたが、主郭には土塁があります。
あまりに整い過ぎていて、往時のものかどうか?ですが。


◆歴史◆

蓬田氏により築かれたとされます。

蓬田氏は、石川成光の次男・秀光を祖とします。
蓬田秀光は文明年間頃(1470年頃)の人物ですが、築かれた年代は不明です。

1570年、蓬田法光が田村隆顕に鞍替えしました。

何があったのか?なので、元々属していた石川昭光を調べました。
1570年に上洛して将軍に拝謁し、官位を得て石川昭光と改名しました。
「昭」は足利義昭からの与えられた一字のようです。
少し前の1567年、石川晴光が佐竹義重に本拠を攻め落とされています。
この時は岩城重隆の援護を得て、本拠地への帰還を果たしています。
石川氏は佐竹氏・岩城氏と田村氏に挟まれ、領地を奪われ続けていました。
この状況を打開しようと、石川晴光は伊達家からの養子に家督を譲っています。
これらの状況から、蓬田法光が石川家を見限ったのではないか?と思います。

1581年、蓬田法光が石川家に帰参しました。

この頃になると、伊達家と田村家が、周辺勢力と対立し孤立しました。
敵対したのは佐竹家・蘆名家・二階堂家・石川家・白河結城家など。
ほぼ包囲されていたという状況です。
この年に田村清顕が佐竹義重と戦って敗れています。
戦況不利と見て寝返ったのか、戦後に石川家に戻されたのか・・・
理由はわかりませんあせる

1590年、蓬田氏が当地を離れました。

1589年、仕えていた石川昭光が伊達家へ鞍替えしました。
伊達政宗が蘆名家を滅ぼし、陸奥で圧倒的優勢となったためです。
この時は石川氏をはじめ、白河結城氏や岩城氏も伊達家に従いました。
しかしその翌年、豊臣秀吉による奥州仕置きで、彼らはみな改易されました。
伊達政宗は小田原に参陣しましたが、彼らは止められていたからです。
以後は主家の石川氏に従い、伊達家臣となりました。

1790年、土浦藩の陣屋が麓に置かれました。

土浦藩は常陸にあった藩で、当時は土屋氏が藩主でした。
土屋氏は片手千人斬りで名を馳せた武田家臣・土屋昌恒の子孫です。
土屋昌恒は武田勝頼に殉じましたが、その子が徳川家康に召し出されました。
徳川家光の代に土屋忠直が老中まで昇進し、土浦藩主となりました。
藩主は一時、松平信興が藩主となりましたが、間もなく土屋氏に戻りました。
土屋氏は以後も老中を輩出し、石川郡9ヶ村が土浦藩領となりました。
土屋氏の蓬田陣屋は、明治維新まで続きました。


所在地:福島県石川郡平田村大字上蓬田字上宿

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