浜崎城/福島県湯川村 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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浜崎城は米沢街道の日橋川沿いにありました。
訪問日は2016年8月2日です。

【1】浜崎城

北から日橋川に架かる橋を渡ってすぐの所に、浜崎城の標柱があります。

【2】浜崎城

ストビュー(2014年6月)だと、この真後ろにお寺の看板がありますが・・・
2年の間に一体何があったのか、スッキリしています。
木陰で木の幹の脇にあるので、目立ちませんけどあせる

【3】浜崎城

すぐ脇には、堀跡と思しき水路があります。

【4】浜崎城

米沢街道をそのまま南へ進むと、今度は説明板が道沿いに現れます。
北から進むと、左側に標柱、しばらく進んで右側に説明板です。
文字も沢山書かれ、図が2枚もあるかなり贅沢な内容です合格

【図】浜崎城
拡大表示

説明板と図が城跡の南端にあるせいか、南北が逆になっています。
私は図の下から上に、真ん中の道沿いに進みました。

【5】浜崎城

説明板のすぐ脇には、周りとは様子の違う平坦な空き地があります。
これは城の南側にある堀跡です。
埋められてまっ平になっていますが、堀の形がよくわかります。

【6】浜崎城

堀跡の道沿いからは、奥に土塁が見えますラブラブ
堀跡とは言え水は無く、柵も無いので近くまで行けそうです。

【7】浜崎城

最初の標柱の所まで戻り、今度は川沿いに東側へ入りました。
川の土手沿いに堀と土塁がありますが、奥の様子がちょっと変恋の矢

【8】浜崎城

城跡の東側の堀跡です。
幅が10メートル程あります。
かなり埋まっているようですが、そこそこ深さがあります。
この時は丁度、堀跡の草刈りをしている方がいました。
畑になっている訳でもないので、堀跡を綺麗にして下さっているようです。
いつ誰が見に来ているのかもわからないのに、とても有難い事ですニコニコ


◆歴史◆

現地の説明板に書かれていた事をベースに書いてみます♪

築城年代は南北朝時代のようです。

『会津古塁記』に至徳年間(1384~86)に浜崎主馬が築いたとあります。
私が直接この史料を見た訳ではありませんがあせる

『真壁文書』では、1352年正月に三浦若狭守に攻められています。
史料に現れる浜崎城の記載としては、これが一番古いそうです。
そのため、南北朝時代に浜崎氏により築かれたと考えられます。

1453年、浜崎城が落城して浜崎氏が滅びました。

1451年と1453年に蘆名家中で内紛があったと説明板に書かれています。
ググってみると、蘆名盛詮が1451年に家督を継いでいます。
この家督相続に反発した家臣を、蘆名盛詮が討伐したと書かれています。
家督を争う兄弟は無くなぜ?と思い、もうちょっとググってみました。
すると、どうやら重臣による主導権争いだったようです。

この頃の蘆名家では、当主の若死にが続きました。
そのため、必然的に難局を支えた重臣の力が強まったようです。
この時に争ったのは松本典厩と多々良伊賀でした。
松本典厩は猪苗代氏を味方につけ、蘆名盛詮に対し謀反を起こしました。
浜崎氏はこちら側に味方したため、蘆名軍に攻め滅ぼされました。
浜崎氏滅亡後の城主は不明ですが、戦国時代までお城は使われ続けました。

1590年、蒲生頼郷が城主となりました。

豊臣秀吉による奥州仕置きの結果、会津は蒲生氏郷の領地となりました。
浜崎城にはその家臣・蒲生頼郷が城主として入りました。
名前が名前なので蒲生氏郷の身内かと思いましたが・・・
血縁は全く無く、元の名前は横山喜内だそうです。
蒲生氏郷の家臣って、やたらと蒲生姓が多いのでわかりづらいですあせる

蒲生氏郷の没後、子の蒲生秀行が宇都宮へ移されました。
これは100万石から18万石への大減封で、改易の一歩手前の処分でした。
蒲生頼郷はこの時に出奔し、石田三成に仕えました。
そして、関ヶ原の戦で活躍しましたが、千賀文蔵兄弟に討ち取られました。

1601年、現在の位置に移されました。

関ヶ原の戦後、蒲生秀行が会津に復帰しました。
この時に、浜崎城は
浜崎城は元々は2つの川に挟まれた所にあったそうです。
説明板では日橋川と大塩川の合流地点と書かれていました。
地図で見たら、城跡の北側にある橋から東側一帯のようです。
川と川の間ということで、常に水害に悩まされていたそうで・・・
1600年に城代となった蒲生郷貞により、日橋川南岸に移されました。
蒲生郷貞も、蒲生氏郷から蒲生姓を与えられた家臣です。

1615年、廃城となりました。

一国一城令により廃城となりました。
ただ、ここは「茶屋」と名前を変えられ、そのまま残されていたようです。
伊達政宗も城を「要害」と名前だけ変えて存続させていました。
なので、蒲生家は伊達家を警戒したのかと思いました。
ただ、ググってみるとそうでもなさそうです。

1598年に蒲生氏郷が没すると、子の蒲生秀行が大減封されました。
しかし、関ヶ原の戦後、徳川家康により会津に復帰。
これで蒲生家は安泰かと思いましたが、1607年に蒲生秀行が没しました。
この時に家督を継いだのが、当時10歳の蒲生忠郷です。
当主が10歳という事で、当人に統治能力はありません。
そのため、母・振姫(徳川家康の娘)と重臣達でドンパチあったそうです。
一国一城令が出されたのは、まさにそんな時期でした。
そのため、大坂の陣では江戸の留守番に回されています。
蒲生家中のゴタゴタは、1627年に蒲生忠郷が没するまで続いたようです。
蒲生忠郷は跡継ぎ無く没し、弟が家督を継いで松山へ移っています。
そのため、この頃まで浜崎城が使われていたのではないかと思います。


所在地:福島県河沼郡湯川村浜崎

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