来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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来島城は村上水軍の一翼を担った来島村上氏の城でした。
能島ついでで、在庫が少ない愛媛なので書いちゃいます!
訪問日は2018年8月8日です。

【1】来島城

来島へは今治市波止浜からフェリーが運航されています。
所要時間はわずか5分!
波止浜港では横づけでしたが、来島では頭付けです。
ワイルドですw

【2】来島城

来島の船着き場には、来島城についての説明板があります。

【3】来島城
【4】来島城
【5】来島城
拡大表示

いつも通りパクリます。
とてもわかりやすい図が載っています合格

【6】来島城

このような案内があり、城跡には迷わず辿り着けます。

【7】来島城

案内に従って住宅脇の石段を登ると、正面に石垣と城址碑が現れます。
案内図では「石垣跡」と書かれており、積み直されたのかもしれません。

【8】来島城

周りにもこのように、石垣が点在しています。

【9】来島城

石垣のすぐ上に村上神社があります。
神社のある平坦地が二の丸跡です。

【10】来島城

その真正面にある細長い平坦地が三の丸跡です。

【11】来島城

村上神社は二の丸の端にあります。
神社脇から見た二の丸はこんな感じです。

【12】来島城

本丸の直下にある腰曲輪です。
案内図では名前が書かれていない所です。
木はすべて桜なので、春先はここでお花見が出来そうです。

【13】来島城

本丸に上がる道です。
狭い一本道になっています。

【14】来島城

本丸です。
一番北側から全体を見た所です。
幅は広い所でも10mない位の細長い曲輪です。

【15】来島城

本丸からは、しまなみ海道に架かる吊り橋がよく見えます。

【16】来島城

下る途中、まとまった平地があったので寄ってみました。
実はここが城主様の居館跡でした。
ちょっと、草が生い茂っていますクローバー

【17】来島城

その奥にひっそりと建物がありました。
住居かと思い恐る恐る近づいたらお寺でした。
ここには来島城主の位牌が安置されているそうです。

【18】来島城

30分程で散策を終えましたが、渡し船が来るまで1時間程余りました。
せっかくなので、海岸にあるらしい柱穴を探しに海沿いを歩きました。
しかし、タイミング悪く満潮だったため、岩場は完全に水没・・・
1つだけでもと思い歩ける所は全て歩きましたが、見つかりませんでした。

【19】来島城

それでもまだ時間があったので、渡船の待合室で待とうと思いました。
待合室には、お城の案内図や城主様の肖像画などありました。
しかし、真夏の閉鎖空間は朝方といえどもとても暑く・・・
船着き場脇の八千矛神社で時間を潰すことにしました。

【20】来島城

日陰を見つけて涼んでいると、色々と気になる神社でした。
まず、屋根にやたらと鯱が乗っています。
間近で見ると、とてもカッコイイですね恋の矢
そして、鬼飾り瓦には村上家の家紋が!
ググってみたものの、創建は河野氏のようでした。
ということは、再建した時に関わったということでしょうか・・・。


◆歴史◆

来島村上氏により築かれたと考えられます。

八千矛神社でググると・・・
文治2(1186)年に河野通助が箱潟に城を築いたとありました。
河野氏かと思いましたが、ググってみると意外な事が出て来ました。
それは、河野通助の子が村上氏の家督を継いだかもしれないという事です。
両家の系図に登場するものの、信憑性が無いとするサイト様もあります。
村上氏自体は平安時代にはすでに伊予と関わりがありました。
なので、この話もまんざら嘘とも限らないところがあります。

村上家が能島、来島と因島の三家に分かれたのは1419年の事です。
来島に配置されたのは、村上義顕の三男・吉房です。
この時に来島城が築かれたとするサイト様が多いです。
来島の村上氏は、日ごろは対岸の波方館で暮らしていたそうです。
来島村上氏は早くから河野氏に従い、戦国時代を迎えました。

1541年頃、河野家の家督争いに巻き込まれました。

1541年、大内軍が伊予に攻め込みましたが、村上通康が撃退しました。
すると河野通直は、娘婿の村上通康を後継者にすると突然言い出しました。
河野通直には跡を継ぐ男子がいないためでした。
しかし、河野家中は猛反発し、予州家の河野通政を立てて対抗しました。
争いは河野通政側に分があり、河野通直は湯築城を脱出。
大友義鑑の仲介により和睦し、河野家は河野通政が継ぎました。
村上通康はその後も河野家に仕えています。

1582年、村上通総が来島を追われました。

中国地方を攻略していた羽柴秀吉の誘いに乗り、村上通総が従いました。
村上通総は1570年頃から河野氏に従わなくなりつつありました。
また、宗家の村上武吉とも作戦の相違から不仲になっていました。
周りがみんな不仲だったので、後ろ盾が欲しかったのでしょうか。
これに毛利家が反発し、毛利軍や能島・因島の村上水軍に攻められました。
村上通総は衆寡敵せず退散し、羽柴秀吉のもとに逃れました。

1584年、来島通総が帰ってきました。

村上通総は羽柴秀吉に「来島、来島」と呼ばれ、その側近となりました。
そして、羽柴秀吉が毛利家と和睦すると、旧領である来島に帰って来ました。
その後、四国征伐の際には小早川隆景の先鋒として大活躍。
伊予国野間郡・風早郡に1万石以上の領地を与えられ、大名となりました。
一方、来島通総を苦しめた村上武吉は目の敵にされ・・・
最終的に瀬戸内海から追放されました。

1600年、廃城となりました。

来島長親は関ケ原の戦で、西軍として行動しました。
そのため、戦後に領地を没収され、来島城は廃城となりました。
その後、本多正信のとりなしで、豊後森に1万石4千石を与えられました。
豊後森は海の無い山の中です。
来島氏は子の代に久留島姓に改め、明治時代まで森藩主として続きました。


所在地:愛媛県今治市来島

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