一宮城/徳島市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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一宮城は阿波国最大の山城で、阿波小笠原氏の本拠でした。
訪問日は2018年8月4日です。

【1】一宮城

一宮城跡への登城口入口です。
一宮神社を目印に車を走らせましたが、あまり目立たず。
「・・・ビックリマーク」で一度通り過ぎてしまいましたあせる
ここから細い路地に入ります。

【2】一宮城

入口を曲がった所にある豪華な説明板です合格
真新しい感じがしますが、日付は9年前の平成21年です。

【3】一宮城

車は神社裏のここにしか停めることができません。
頑張ればギリギリ軽3台までは停められそうです。
有料なので、木にくくられた赤ポストに300円納めました。

【4】一宮城

その真正面が登城口です。
ここの案内図付きの説明板もかなり新しい感じです。
それだけ地元の期待を集めたということでしょうか。
神社の方が話しかけて来て、埼玉から来たと言うと
「埼玉と岐阜はよーけ来はりますわぁ」
とおっしゃっていました。
城キチの棲息域は、かなり偏りがあるようですw

【5】一宮城
拡大表示

せっかくのご好意なので、パクらせて頂きます♡

【6】一宮城

続日本100名城スタンプ設置場所
【7】一宮城 一宮神社裏の登城口
 押せる時間 いつでも可

この案内図の右側の柱に、続日本100名城スタンプがあります。
いたずらが心配ではありますが、いつでも押せるのはありがたい事です。

【8】一宮城

登城路はこんな感じで整備されています。
山城の階段は段差があってモモ上げキツイですが、ここはいい感じです音譜

【9】一宮城
登城口から2分

登り始めて最初に現れたモニュメントです。
何だろ何だろ?と見ると「経筒出土地」と書かれていました。
平坦地は見当たらないのですが、ここにお寺があったんだそうです。
その脇にあるのが「本丸まで500メートル」の標柱です。

【10】一宮城
登城口から5分

もうちょっと進むと、今度は「竪堀」の札が立っていました。
ようやく城跡らしい用語が現れ始めましたラブラブ

【11】一宮城
登城口から6分

そのすぐ先には倉庫跡の案内が。
ちょっと脇に入って行くと、細長い曲輪がありました。

【12】一宮城
登城口から7分

次に現れたのがこの石積み。
その先が明らかに人の手が入った段差になっています。
城域に入り、何があったのか想像するだけで楽しくなってきます音譜

【13】一宮城

段差のちょっと先には、曲輪と書かれた札の立つ脇道があります。

【14】一宮城

蜜に誘われる蛾のようにふらふらっと入って行くと、ありました^^
奥にもう1段曲輪があります。

【15】一宮城
登城口から11分

登城路に戻って進むと、目の前を土の壁で遮られています。
その上が平らになっているので、曲輪がありそうな感じがします。

【16】一宮城

土の壁の手前で道なりに右へ進むと、こんな光景が現れます。
山城なので、やっぱり堀切様がいらっしゃいます恋の矢

【17】一宮城

堀切の底から左に入る虎口があり、入口に「財蔵丸」の碑があります。
案内図では「才蔵丸」と書かれている曲輪です。

【18】一宮城

今まであったどの曲輪よりも広いです。
だんだんと城の中心部に向かっているのが実感できました。

【19】一宮城

堀切様を振り返って見た所です。
坂道を登ってそのまま才蔵丸に入らないよう、掘った感じに見えますラブラブ

【20】一宮城
登城口から16分

今度は「門跡」が現れました。
その内側に石段があります。
慌てて門をくぐるとつまづきそうですね。
私みたいな慌てん坊にはとても有効な防御機構ですあせる

【21】一宮城

門の奥には「←本丸跡」「明神丸跡→」の案内がありました。
本丸は後ということで、先に明神丸を見てきました。
門跡からすぐ右を向くと、こんな感じで土の壁があります。
この上が明神丸という曲輪です。
門を上から守っていたんですね!

【22】一宮城

城跡の主要部には、このように拡大した案内図があります。
とてもわかりやすくていいですね合格合格合格
明神丸の内部は特に感慨も無い風景なので、パスしますあせる

【23】一宮城

門跡から左の本丸側を見た所です。
見た目は普通に道にしか見えないのですが、帯曲輪と書かれていました。
その説明書きにも「周りを帯状に細長く囲む」と書いてあるのですがあせる
ここの帯曲輪は、明神丸と本丸をまっすぐつなぐ通路的な所です。
もしかしたら、本丸と明神丸を囲んでつながっているのかもしれません。

【24】一宮城
登城口から21分

奥に見えて来たのが、本丸の石垣です。
続日本100名城スタンプに描かれた所です。
城内でしっかりした石垣があったのはここだけです。
昔はもっとあちこちにあったのかもしれません。

【25】一宮城
拡大表示

本丸の虎口の前に、またしても案内図がありました。
お城の構造がシンプルにわかりやすく描かれています。
今になって「あぁ、そうだったんだ」という所もありますが・・・
それは後程あせる

【26】一宮城

本丸内部の様子です。
思っていた程広くはありませんでした。
奥には石積みの上に小さなお社が祀られています。

【27】一宮城

ここにも拡大した案内図がありました。
とてもわかりやすいです合格

【28】一宮城

本丸のすぐ脇にある腰曲輪が釜床です。

【29】一宮城

釜床から見上げる本丸の石垣です。
石の積み方が徳島城に似ています。
徳島城がこちらに似たのが正解でしょうか。
平らな石がきれいに積まれています。

【30】一宮城

側面は途切れずに石垣が残っていますラブラブ

【31】一宮城

せっかくなので、見られる所まで見ようと奥へ進みました。
本丸から先は訪ねる人が少ないせいか、道も急に細くなります。

【32】一宮城
登城口から30分

案内図にあった、本丸からすぐの所にある堀切です。
これを見なければ、山城に来た気がしません(`・ω・´)

【33】一宮城

そのすぐ先に「花畑」の案内があります。
そこにあるのは木々が思い思いに茂る雑木林ですが・・・
すぐ下にある段々の平坦地のことのようです。

【34】一宮城
登城口から33分

さらに進むと、道の先にアレが現れました!

【35】一宮城

次の曲輪は小倉丸です。
案内図がかなり荒れ果ててしまっていますが、ギリ何とかわかります。

【36】一宮城

小倉丸に入る、長さ30メートル程の坂虎口です。
これはこれで結構キツイです。

【37】一宮城

小倉丸は細長い曲輪で、一番奥には櫓台があります。

【38】一宮城

再び道に戻ると、今度は空堀と竪堀がセットで現れます。

【39】一宮城

空堀はこんな感じで、一瞬堀切っぽく見えます。
この堀は小倉丸をぐるっと囲んでいる横堀でした。

【40】一宮城
登城口から40分

道はまだまだ奥へと続きます。
椎丸と貯水池跡への道が分岐しています。

【41】一宮城

そのまま椎丸方向に進むと、こんな感じのラスボス感のある所に来ます。
ここを登ったらゴール!みたいな雰囲気が漂っています。

【42】一宮城

登りきると小さな平坦地があり、その先に小さな段差があります。
小さな段差を登ると、その先にはさっきの3倍位の段差があります。

【43】一宮城
登城口から42分

2つの段差を越えた所が、ちょっと広い平坦地になっていました。
標示は見当たらなかったのですが、多分ここが椎丸です。
それまでの曲輪と比べると、やや草深い感じがします。
さらにその先の水手丸にも行きたかったのですが・・・
椎丸の先端は深い草に覆われて、先に進める雰囲気ゼロでした。
なのでここで城跡探索を終えて下りてきました。

しかし、どうしても気になって案内図を見ていると・・・
水手丸への道が、椎丸の脇から描かれていました。
あぁ、そうだったんだというのはこれで、先端部からは行けないのが正解。
椎丸の途中にあった段差から、右脇に進む道があったはずなのでした。


◆歴史◆

1338年、小笠原長宗により築かれました。

小笠原長宗は阿波守護・小笠原長房の四男です。
古くからこの地を支配していた一宮氏を滅ぼし、新たに城を築きました。
小笠原長宗の子・成宗が一宮大宮司職を継ぎ、一宮姓を名乗りました。
南北朝時代には南朝方として活動し、細川氏とたびたび戦いました。
そして1362年、細川頼之に敗れてその家臣となっています。
以後、戦国時代に至るまで、一宮氏が代々居城としました。

1582年、長宗我部元親の城になりました。

1573年5月、三好家一番の重臣・篠原長房が三好長治に攻められ自害。
三好長治の乱れを諫めた結果疎まれ、ライバルに讒言された結果でした。
すると、三好家中は真っ二つに分裂し、争うようになりました。
三好氏により傀儡と化していた阿波守護・細川真之が勝瑞城から脱出。
以後、反・三好長治方の旗頭となりました。
一宮成祐は反・三好長治方として活動。
1577年3月、伊沢頼俊とともに三好長治を自害に追い込みました。

その後、三好家主流派は、三好長治の実弟・十河存保を当主としました。
4月には伊沢頼俊が三好方の矢野国村に急襲されて戦死しました。
一宮成祐は孤立したため、長宗我部元親を頼るようになります。
十河存保との戦いは一進一退を繰り返し、一時は勝瑞城を奪いました。

1580年、織田信長は長宗我部元親に、家臣になるよう迫りました。
しかし、長宗我部元親はこの要求を突っぱねたため、敵対関係となりました。
このころ、畿内の三好氏が織田信長の軍門に降っています。
織田信長は長宗我部元親と対抗するため、畿内の三好軍を四国に派遣。
十河存保を助けるようになりました。
しかし、1582年6月、本能寺の変により織田信長が世を去りました。
織田方が浮足立った機を逃さず、長宗我部元親が十河軍を撃破。
ついに長宗我部元親による四国制覇が成し遂げられました。

この年の11月、恩賞話があると呼び出された一宮成祐でしたが・・・
待ち受けていた長宗我部家臣により殺されてしまいました。
一宮成祐は、畿内の三好軍が来た時に、密かに三好方に誼を通じました。
これが長宗我部元親にバレてしまい、謀殺されたのでした。
長宗我部元親は谷忠澄と江村親俊に一宮城を守らせました。

1585年、羽柴秀吉の城になりました。

羽柴秀吉は長宗我部元親を討伐するため、大軍を四国に送り込みました。
圧倒的な兵力差があり、長宗我部元親は降伏。
それまで制圧してきた阿波・讃岐・伊予が没収されました。
阿波には羽柴秀吉の家臣・蜂須賀家政が入りました。
蜂須賀家政は当初、一宮城を居城としました。

1586年、蜂須賀家政は徳島城を築き、居城を移しました。
一宮城にはその家臣・益田持正が城代として入りました。
阿波九城の1つとして重要な支城と位置付けられましたが・・・
1615年、江戸幕府の出した一国一城令により廃城となりました。


所在地:徳島市一宮町

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