訪問日は2016年8月2日です。

国道49号の東西の延長線上の西側に、高瀬の大木があります。
会津若松市街側からは、こんな感じに見えます
ここが神指城の二の丸の北東端の角の土塁です。

高瀬の大木のところにある説明板です。
目のいい方は文章読めるかもしれませんねw

「高瀬の大木」の正体はケヤキです。
沢田城でも樹齢400年超のぶっといケヤキがありました。
この時代はやったのでしょうか?

近くにあった別の図です。
図の黒が濃い所が残っている部分です。

高瀬の大木から真西に見えるのが、二の丸の北西の角です。

高瀬の大木から本丸部分を見た所です。
城内なのに、田んぼの向こう側にあります


「そこ」に行くと、超イイものありました




説明板と図を拡大表示
本丸跡にある説明板です。
字ちっさいですが・・・
気合で読んで下さい


ここは一応観光客向けに整備された感じがします。

まぁ、こんな感じで気合十分に見えます。

その中の1つです。
石垣っていうので期待しましたが・・・
石垣、ですねw

まぁ、こんな感じで、中をじっくりという所ではありません


二の丸の南西の角にあるのが如来堂です。
神指城の土塁の角だけが、田んぼの中に点在しています。
これらはだいたい木が茂っているので、遠目によくわかります。

二の丸の南の角は、田んぼの真ん中にポツンとあります。
平城はだいたい綺麗サッパリ何も無くなることが多いのですが・・・
ここは角だけが残っている、奇跡的な感じの城跡です。
◆歴史◆
1600年3月、上杉景勝により築城が開始されました。
1598年、上杉景勝が越後から会津120万石に移されました。
その本拠地として築き始めたのが神指城でした。
築城は1600年3月に開始され、延べ12万人が動員されました。
直江兼続指揮のもと、本丸と二の丸の土塁と堀まで完成していました。
城は総石垣の近代的な平城で、会津若松城の倍の広さだったそうです。
1600年6月、築城が中止されました。
上杉景勝と徳川家康の間で戦が始まりました。
徳川家康は全国の兵を率いて、会津を目指し出陣。
このため、神指城の築城が中止されました。
この戦はそのまま関ヶ原の戦いへと移行。
関ヶ原で徳川家康が勝利すると、上杉景勝は降伏。
直江兼続とともに上洛し、徳川家康に謝罪しました。
上杉景勝は米沢30万石へ移され、神指城は廃城となりました。
その後、会津は蒲生秀行→加藤嘉明の領地となりました。
1631年に加藤明成が家督を継ぐと、鶴ヶ城の改修を開始しました。
鶴ヶ城は、1611年の大地震で破損したまま放置されていたのでした。
この改修に、神指城の石垣が使われたそうです。
所在地:福島県会津若松市神指町
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