船岡館/福島県会津美里町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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船岡館は蘆名四天王の一家・松本氏の館でした。
訪問日は2016年7月31日です。

【写1】船岡館

館跡は、畑に囲まれた神社となっています。
当時は奥の神社にしか目が行きませんでしたが・・・
もしかしたら、手前の畑も曲輪に見えてきました。

【写2】船岡館

鳥居赤いです♪
鳥居の後ろにもネギ生えてますクローバー

【写3】船岡館

この段差、崩されずに残ってます合格

【写4】船岡館

上がってみると、やっぱり畑も曲輪ですね!
・・・曲輪でいいんですよね?
神社の所が一段高く、その周りを微高地が囲んだ感じ。
航空写真を見ると、見事に田んぼに囲まれています。
しかも、ここの小字が「上屋敷」で、北隣が「下屋敷」。
田んぼの中で、この2つの小字が島のようにつながっています。
という事で、館はもっともっと広かったようですあせる


◆歴史◆

会津松本氏の館でした。

松本氏は、信濃から来た伊那氏の一族だそうです。
いつ移って来たのかは明確ではありませんが・・・
1453年にはすでに蘆名氏に仕えていたそうです。

蘆名四天王の一家でした

蘆名四天王は松本氏の他に富田氏、佐瀬氏と平田氏がいました。
特定の武将ではなく、この四氏を指して「四天王」と呼んだようです。
四天王なので、常に蘆名軍の中心だったかと思いきや・・・
1500年代に何度も蘆名氏に対抗して反乱を起こしていました。
こんな四天王もあるんですねあせる

1585年、松本氏が没落しました。

1492年に猪苗代氏と組んで反乱。
その後しばらくの松本一族は、蘆名盛高の討伐を受けました。
1505年の蘆名盛高・盛滋父子の争いでは、蘆名盛滋に味方しています。
蘆名父子の和解後、蘆名盛滋が家督を継いで没するまでは平穏でした。

1521年に蘆名盛滋が没し弟の蘆名盛舜の代にはちょっと暴れました。
家臣が各地で反乱を起こすも、次々平定。
蘆名盛舜は地力を付け、次第に勢力を拡大しました。
子の蘆名盛氏の代に、蘆名氏は最盛期を築き上げました。
このころの松本氏は、とてもおとなしかったようです。
しかし、蘆名盛氏の没後、後継ぎが次々と没して不安定になります。

蘆名盛氏が存命中だった1575年、松本図書が戦死しました。
後継ぎの子はまだ3歳でしたが、蘆名盛氏は禄を据え置き大事にしました。
そして、太郎が15歳になったら宿老に加えるよう遺言し、世を去りました。
しかし、家督を継いだ蘆名盛隆は、この遺言を守りませんでした。
太郎が14歳になると領地を没収し、黒川城内の屋敷も近習と交替。
そして、太郎が15歳になっても何の音沙汰もありませんでした。
1584年、太郎は蘆名盛隆の留守を突いて、黒川城を占拠。
しかし、蘆名軍が続々押し寄せ、多勢に無勢で討ち取られました。

1585年、家臣の反乱が相次ぐ蘆名家を、伊達政宗が揺さぶりました。
伊達政宗は関柴の地頭・松本輔弘(太郎とは別の系統の松本氏)を調略。
伊達軍が蘆名領内に侵入した際は、その先導役を務めました。
しかし、伊達軍は各地で蘆名軍に敗れ、松本輔弘は討死しました。
松本一族は、この時に伊達政宗を頼って会津を去りました。


所在地:福島県大沼郡会津美里町杉屋

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