久川城/福島県南会津町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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久川城は、河原田盛次が伊達政宗に抵抗するために築いた城です。
訪問日は2016年7月31日です。

【写1】久川城

福島シリーズ2年目のある日、ココが飛び抜けて遠いので朝一で来ました。
夜明けにココなのですが、道中、温度計が一桁な所もありました。
温暖地仕様な私には、ちょっとキツイ地域ですあせる

【写2】久川城

城跡前の道から「あ、ココから登るんだ」と思えた所です。
案内図に説明板に駐車場、右脇には城址碑までセットであります合格

【写3】久川城

県道からとても近いので、すぐにそれとわかりますラブラブ

【図】久川城
拡大表示

せっかくなのでパクリます。
私が歩いたルートは右下から登って右へ。
右上~真ん中手前の上に至り、そこから空堀に沿って下へ。
真ん中の本丸を見た後左へ進み、左下へ下りて来ました。

【写4】久川城

斜面のつづら折れ道を登り切った所です。
両脇が高く、真ん中が凹んだ感じの入口です。

【写5】久川城

上から見たらこんな感じです。
桝形ちゃんですねラブラブラブラブラブラブ

【写6】久川城

城内はこんな感じです。
綺麗に削平された広い曲輪です。

【写7】久川城

登り切って右へ進み、突き当りから反時計回りに進むと、土塁があります。
土塁上には柵が付けられ、ここを歩けと言わんばかりの道があります。
もちろん、ちゃんと釣られました恋の矢

【写8】久川城

曲輪の端に付けられた土塁ですが、時々こんな感じになっています。
土塁に付けられた堀切でしょうか。
凝ってますニコニコ

【写9】久川城

はじめは土塁だと思って登ったのですが・・・
だんだん高くなり、下の曲輪から10メートル以上になります。
歩いていると、土塁というより普通に山城を歩いている感じがします。

【写10】久川城

こんな感じで、堀切がありますからw

【写11】久川城

この堀切から脇へ下る道があります。
見上げるとこんな感じです。
堀切から始まった竪堀が、そのまま下の曲輪まで続いています。

【写13】久川城

その下ってきた竪堀が直角に曲がり・・・

【写14】久川城

やがて、土の壁が開いた虎口に至ります。
ここが本丸の入口です。

【写15】久川城

光線状態が悪かったので、反対側からもあせる

【写16】久川城

内側は三方を土塁に囲まれ、一番奥がさっき歩いて来た高土塁です。

【写17】久川城

お城は東側に川があり、西側は高土塁からの急斜面です。
その間にある丘をまるまる1つ使って、両サイドを堀切で分断しています。
これだけのお城を短期間で築く財力が、河原田氏にはあったんですね!

【写19】久川城

土塁上から見ると、本丸の方が一段高くなっているのがわかりますラブラブ

【写20】久川城

そして、ここに城址碑クンもいらっしゃいます。

【写21】久川城

本丸虎口の右側には空堀がありましたが、左側にはありません。
埋められてしまったのでしょうか・・・?

【写22】久川城

左の脇にはちゃんとあります。
この堀は、下ってきた右脇同様に奥の高土塁上まで竪堀として続きます。

【写23】久川城

城跡から麓が見える所がありました。
知らずに撮ったのですが、向こう側の山が河原田氏の本拠・駒寄城です。

【写24】久川城

本丸前から左へ進むと、土塁の迷路みたいな所に出ます恋の矢

【写25】久川城

ここにも高土塁へと続く竪堀がありますラブラブ

【写26】久川城

さらに進んで突き当りには、下る道があります。

【写27】久川城

こちらの道もウネウネ道で、下り切った所の光景です。
意図あって引いた構図にしているのは、ここも桝形だからですラブラブ

【写28】久川城

案内図の左下には「角馬出し」と書かれています。
私の事前に思い描いた妄想では、この5倍以上高かったのですが・・・

【写29】久川城

現在残っているのは、高さ1メートル程の痕跡程度の土盛りです。
それでも、何となく形はイメージ出来ます。

【写30】久川城

その「角馬出し」を県道から見た所です。
「トイレ」は物置となり、その機能を停止していました。
角馬出は、夏場は足元の草がヒザ程の高さに茂っています。
最初にここ来たのですが、ここに道があるとは思っていませんでした。
下ってきたからこそ、上から桝形が見えてわかった感じです。


◆歴史◆

1589年、河原田盛次により築かれました。

河原田氏は源頼朝に従った功により、伊南の地を与えられたとされます。
それ以来ずっとこの地に根を下ろし、会津四家に数えられました。
会津四家は蘆名氏、山ノ内氏、河原田氏と長沼氏です。
北隣の山ノ内氏との関係は良好で、両家で狼煙ネットワークを組む程でした。
一方、東隣の長沼氏とは、たびたび争いがありました。
彼らは戦国時代に入ると、急成長を遂げた蘆名盛氏に従っていました。

しかし、超カリスマ・蘆名盛氏が没すると、蘆名家はグダグダになりました。
そして家中が分裂状態になった所を、伊達政宗に攻められて滅びました。
伊達政宗は蘆名旧臣に臣従を要求し、その多くが従いました。
しかし、河原田盛次と山ノ内氏勝は、この要求を突っぱねました。
そのため、伊達政宗は両者を討伐すべく兵を差し向けました。

河原田盛次を攻めたのは、伊達政宗に従った長沼盛秀です。
長沼盛秀は隣の領主で、河原田盛次とは境界を巡るトラブルがありました。
その長沼盛秀を通じて臣従を要求した伊達政宗、ちょっと意地悪ですw
河原田盛次は、伊達勢の侵攻に備えて久川城を築きました。
1年でこれだけ大きな城は築けないと思います。
新たに城を築いていた所に、蘆名氏滅亡が重なったものと思われます。

1590年、河原田盛次が領地を没収されました。

伊達勢の猛攻に耐えていた河原田盛次でしたが・・・
ギブアップ寸前まで追い詰められ、豊臣秀吉に助けを求めました。
すると来年小田原を攻め、そのまま伊達政宗を攻めると返事がありました。
これに勇気を得た河原田盛次は兵を出し、長沼盛次に傷を負わせています。

約束通り豊臣秀吉は小田原に出陣し、伊達政宗を攻める動きを見せました。
渾身の縁起により、伊達政宗は討伐を免れましたが・・・
伊達政宗は旧蘆名領を没収され、伊達軍が会津から去りました。
河原田盛次は大いに胸を撫で下ろしたことでしょう。
しかし、伊達政宗だけでなく、河原田盛次も領地を没収されました。
伊達軍に抵抗した山ノ内氏勝同様に本領安堵を約束されていましたが・・・
小田原に参陣しなかったというのが、その理由のようです。

1590年以降の久川城

久川城は、会津の新たな領主となった蒲生氏郷の城となりました。
蒲生氏郷が1595年に没すると、蒲生秀行が家督を継ぎました。
その3年後の1598年、98万石の会津から18万石の宇都宮へ移されました。
理由は色々な説がありますが・・・今もわかっていませんあせる

会津には越後から上杉景勝が移されました。
その上杉景勝は、豊臣政権の後に天下を握った徳川家康に喧嘩を売りました。
そのため会津を没収され、蒲生秀行が再び会津の領主となりました。
久川城の廃城は1611年とされますが、蒲生秀行の没年は1612年です。
この時差は何だろう?と思いましたが・・・
1611年、会津地震と呼ばれる大きな地震がありました。
直下型地震で、鶴ヶ城では石垣が崩れ天守が傾いたそうです。
蒲生秀行の死因は、ゴタゴタが続いた事による心労だったそうです。


所在地:福島県南会津郡南会津町伊南青柳

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