笹岡城/新潟県阿賀野市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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笹岡城跡には諏訪神社と鑑洞寺があります。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】笹岡城

城跡の南西部分には諏訪神社があります。
木々に隠れて社殿が見えませんが・・・

【写2】笹岡城

シャイな社殿はこちらです。

【写3】笹岡城

さらにその南東隣には、鑑洞寺があります。
かなり大きな立派なお寺です。

【写4】笹岡城

神社とお寺の間には、その奥に通じる道があります。
パッと見では堀切のように見えますが・・・

【写5】笹岡城

反対側から見た所です。

【写6】笹岡城

通り抜けた所に遊具が並んだ公園があります。
さっきの堀切っぽいのは、たぶん虎口じゃないかと思います。

【写7】笹岡城

この公園の一角に、何やら白い板があります。
その板には文字と図が・・・
城キチなので、反射的に吸い寄せられますw

【写8】笹岡城
図の部分を拡大表示

誘蛾灯のように強力な引力を持ったソレは、笹岡城の説明板でしたラブラブ
文章だけでなく、縄張り図まで載っています恋の矢
この図によると、どうやら公園が本丸のようです。

【写9】笹岡城

この公園の端っこには、土塁が一部残っています。

【写10】笹岡城

公園から南東へ進むと、小高い所に小さな祠があります。
ここが図でいう物見台のようです。

【写11】笹岡城

ここから下り坂となり、その先に広場が見えます。

【写12】笹岡城

下り切った所は少し窪んでいて、元々は堀切だったかもしれません。
その先のかなり広い所が、図にあった二の丸のようです。

【写13】笹岡城

二の丸の北側には低い土塁があり、その上には小さな石像が並んでいます。
城跡にあるお寺ではよく見られる光景です。

【写14】笹岡城

二の丸の奥まで進むと、再び窪みがあります。
こちらは、さっきよりもかなりハッキリした堀切です恋の矢

【写15】笹岡城

かなり浅くなっているようですが、それでもちゃんとわかります。
写真の左側がさっき見た二の丸で、右側が三の丸です。
三ノ丸内部は墓地となっています。
説明板ではその先が城域だったかわからないと書かれていました。
図では二の丸と三ノ丸の北側に2つ曲輪が描かれていましたが・・・
堀切を見て上機嫌になり、そちらを見てくるのを忘れてしまいましたあせるあせるあせる


◆歴史◆

1350年頃、篠岡資尚が城を築いたのが始まりとされます。

篠岡資尚は出自等わかりませんが、南朝に味方していたようです。
後にこの辺り一帯を支配した揚北衆は、だいたい北朝方でした。
そのため、南北朝の争いの中で篠岡氏は領地を失ったものと思われます。

山浦上杉家の居城となりました。

揚北衆は北朝に味方していたものの、独立性の高い集団でした。
彼らは後から来た上杉氏に心の底から従っていた訳ではありませんでした。
そのため、越後守護・上杉房方は弟・上杉憲重を山浦に配置しました。
上杉房方の守護在任が1380年~1421年のため、その間という事になります。
これは揚北衆が勝手な行動に走らないようにするための処置と思われます。
上杉憲重は地名から山浦姓を名乗るようになりました。

1423年、越後応永の乱の舞台となりました

1421年に越後守護・上杉房方が没しました。
跡を継いだ上杉朝方も翌年急死。
遺児の幸龍丸は2歳のため、上杉朝方の弟・頼方が後見となりました。
この当時、室町幕府と鎌倉府の対立が深刻な状況となっていました。
幕府は越後守護を継いだ上杉頼方が、鎌倉府寄りではないかと疑いました。
弟が関東管領であり、守護代・長尾邦景が鎌倉府を支持していたからです。
そのため、上杉頼方は自身の疑いを晴らすべく、長尾邦景討伐を命じました。
上杉頼方は在京していたため、実際に動いたのはその子・山浦頼藤です。
このほか、長尾朝景や中条房資、揚北衆も上杉頼方の命令に従いました。
しかし、揚北衆は長尾邦景の調略によってこぞって寝返ってしまいました。
そのため、山浦頼藤は長尾方の三条城の包囲を解き、中条房資を救出。
この時に中条房資が守っていたのが笹岡城だったそうです。
その後、争いは守護方の敗北に終わり、幸龍丸が次の守護となりました。

山浦国清の城となりました。

応永の乱の後、山浦頼藤には跡継ぎが無く山浦家は断絶しました。
それから約100年後、山浦家の名跡が復活しました。
継いだのは武田信玄に信濃を追われた村上義清の子・国清です。
上杉謙信は村上国清が気に入り、山浦上杉家を継がせて一門扱いとしました。
御館の乱の後、その功績で上杉景勝から一字与えられて山浦景国と改名。
天正壬午の乱に乗じて信濃国海津城を奪い、その城主となりました。
笹岡城は上杉景勝家臣・今井国広が城主となりました。

新発田重家の乱で、上杉方の最前線となりました。

御館の乱では揚北衆は上杉景勝に味方し、その勝利に多大な貢献をしました。
しかし、上杉景勝は自身に近い上田衆にばかり恩賞を与えました。
揚北衆は恩賞を約束していた上杉家重臣・安田顕元に詰め寄りますが…
自責の念に駆られた安田顕元は、ついに自害して果てました。
新発田重家は上杉景勝の裏切りに憤り、1581年に挙兵。
一時は新発田軍が笹岡城に迫りますが、辛うじて撃退しました。
しかし、約3.5km西の水原城が新発田軍に占拠され、最前線となりました。
1587年10月、上杉軍の総攻撃により新発田城が陥落し、乱が終わりました。
その後の笹岡城については不明です。


所在地:新潟県阿賀野市笹岡

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