津川城/新潟県阿賀町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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津川城は越後と会津の境にあった山城です。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】津川城
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城跡へは国道459号のトンネルの手前からアクセスできます。
新潟の城跡なので、もちろん「新潟側」から見て手前です。
会津から見たら「トンネルを抜けた所から」です。
当たり前の事書いて、一人で勝手に盛り上がってます♪
トンネルの入口脇にかなり広いコンクリートの広場があります。
元はドライブインがあったのかもしれませんが・・・
西側の一番奥に、この案内があります。

【写2】津川城

歩き始めてすぐに、道端に「門跡」の標柱が現れます。

【写3】津川城

ちょっと引いて撮るとこんな感じです。
左側の土盛りと右側の斜面を使って道を狭めていたようです。
何となく、そんな雰囲気は掴めます。

【写6】津川城

ここは色々と親切な標柱がありますラブラブ

【写7】津川城

まだまだ全然登っていないので、麓の家臣団の住居跡のようです。
いわゆる「根古屋」ですね!

【写8】津川城

【図】津川城
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更に進むと、とってもいい図の載ったボードがあります合格
お城の主要部はまだまだ先のようです。

【写9】津川城

すっかり大手道だと思っていましたが・・・
こっちは搦手だったんですねw
そう思って上の図をじっと見てみますが、大手口どこでしょう?w

【写10】津川城

引いて見ると、何となく門っぽいです。
「土塁跡」なので原形を留めていないのかもしれませんが・・・
道を通すために崩したという事でしょうか。

【写11】津川城

門っぽい土塁跡を過ぎると、いよいよ登り道になります。
ようやくですが、山城らしくなって来ました!

【写12】津川城

ここら辺から道端の標柱が賑やかになってきますラブラブ

【写13】津川城

まぁ、そんな感じではしゃぎながらバチバチ撮りまくりますが・・・

【写14】津川城

夏場なので、たいだいこんな感じになりますクローバー

【写15】津川城

登城路の途中に、超達筆な説明板があります。
そのタイトルは「麒麟山狐戻城の由来」です。
狐も戻る位に険阻な山城
説明板としては、トップクラスのカッコ良さです恋の矢

【写16】津川城

山道をズンズン登って行くと、今度は石垣の標柱が現れましたラブラブ

【写17】津川城

残念ながら、クローバークローバークローバーに埋もれて見えずハートブレイク

【写18】津川城

かなり登った所で平坦地が現れ、出丸跡の標柱がありました。
ここはさっき見た石垣のすぐ上にある曲輪です。

【写19】津川城

そのすぐ上にあるのが本丸です。
本丸なのですが、奥の方が1段高いです。
高いといっても幅の狭い段なので、物見台といった所でしょうか。

【写20】津川城

その高台の端っこに展望台があります。

【写22】津川城

本丸にある城址碑です。
ここも「麒麟山城」と書かれています。
お城にいくつも名前があることは珍しくありません。
私もどの名前で紹介するのか悩む事が少なくありません。

【写23】津川城

さて、本丸見たし次行こか~なんて思っていましたが・・・
本丸の付け根から更に高い所がありました。
チラっと見える赤い鳥居。
きっとそこも曲輪に違いないと攻めてみました!

【写24】津川城

赤を基調とした神社ということで、お稲荷様です。
ここは麒麟山金上稲荷神社で、城主様がお祀りしていたそうです。
狐が戻るくらいに険しいと説明板には書かれていたのですが・・・
お稲荷様のお使いである狐様は、かなり健脚だったのかもしれませんねw


◆歴史◆

1252年、藤倉盛弘(金上盛弘)により築かれました。

藤倉氏は会津の盟主・蘆名氏と同族です。
祖父の代の藤倉盛義は、蘆名氏の祖・蘆名光盛の兄に当たります。
藤倉盛弘は会津西部の金上の地頭となり、金上姓に改めました。
その後、越後国の阿賀野川上流域に進出し、津川城を築きました。
金上氏は越後との境目を守る一族として、蘆名家中で重きをなしました。

1589年、金上盛備が伊達政宗との戦で戦死しました。

金上盛備は蘆名四天王の上に位置づけられ、名実共に筆頭の重臣でした。
御館の乱では上杉景虎に味方し、蘆名氏の越後進出の構えを見せました。
武田勝頼滅亡後には滝川一益に接近し、織田家とは同盟関係にありました。
蘆名氏の使者として上洛した際には織田信長にも面会。
陪臣の身でありながら、従五位下遠江守の官位を与えられています。
蘆名盛氏の下で大活躍した金上盛備でしたが・・・
蘆名盛氏の隠居後、当主が相次いで若死したため家中が乱れました。
後継者を誰にするかで家中が割れた隙を、伊達政宗ラブラブに突かれました。
後継者争いで対立した猪苗代盛国が、伊達政宗に寝返りました。
蘆名義広は伊達政宗に決戦を挑みましたが、摺上原の戦で大敗を喫します。
この戦いで金上盛備は討死し、嫡男・金上盛実が津川城で抵抗しました。
その後、金上盛実は降伏し、以後は伊達家の家臣となっています。

1590年、蒲生氏の城となりました。

豊臣秀吉の奥州仕置きにより、伊達政宗の会津領が没収されました。
会津には新たに蒲生氏郷が入り、津川城は蒲生氏の城となりました。

1598年、上杉景勝の城となりました。

上杉景勝が越後から会津へ移されると、津川城は上杉家の城となりました。
津川城には藤田信吉が城主として入りました。
藤田信吉は北条氏邦に乗っ取られた武蔵の藤田氏の子です。
後北条家→武田家→織田家→上杉家と流転を繰り返しています。
新発田重家討伐や蘆名軍の撃退、佐渡島平定など、数々の武功を挙げました。
そして、津川城1万5千石の城主となりました。

1600年、上杉家臣・鮎川帯刀が城主となりました。

上杉景勝が徳川家康と対立すると、一触即発の状態となりました。
上杉家中では開戦派と避戦派で意見が分かれ、藤田信吉は後者でした。
徳川家康との戦を避けるため、藤田信吉は上洛したのですが・・・
開戦派により徳川家康に通じていると讒言され、帰るに帰れなくなりました。
そのため、藤田信吉はそのまま徳川家康の元に逃れています。
津川城には、上杉家臣の鮎川帯刀が入りました。
徳川家康との決戦前には、越後の旧上杉家臣を扇動する拠点となっています。

1627年、廃城となりました。

関ヶ原の戦で徳川家康が勝つと、上杉景勝は米沢へ移されました。
会津には、前領主・蒲生氏郷の子・蒲生秀行が入りました。
その次の代の蒲生忠郷が、1627年1月4日に跡継ぎが無いまま没しました。
蒲生家は存続を認められたものの会津を去り、加藤嘉明が藩主となりました。
この時に、江戸幕府の命令によって津川城が廃城となりました。


所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町津川

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