北条城/新潟県柏崎市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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北条城は越後毛利氏の末裔・北条(きたじょう)氏のお城でした。
訪問日は2015年8月3日です。

【写1】北条城

北条城跡へは、林道である程度の所まで登れます。
綺麗な道しか走れない私の愛車でもバッチリ登れました。
登城口脇に案内板があり、その周囲は路肩が広くなっています。

【図】北条城の案内図
拡大表示

上の写真に写っている案内図です。
林道が城内を通っているのがよくわかります。
夏場は山登りを避けるのですが、ある程度登れるため訪ねました。
この林道が無かったら「冬向きの城」ということで訪ねなかったと思います。

【写2】北条城

林道脇から城跡へと向かう登城路です。
真夏ですが、道は草で覆われず藪掻きをする必要がありません。
メジャーな城跡なので、ハイキングで訪ねる方も多いようです。

【写3】北条城

登城口から3分の所に、馬つなぎ場跡の案内があります。
昔でもここまで馬で来れたんですね!
さすがは四つ脚ですw
目の前にある土の壁は城塁で、ここから山城らしくなってきます。

【写4】北条城

馬つなぎ場から登った所が三郭です。
案内は立てられていますが、今は自然がとても豊かですクローバー

【写5】北条城

そのすぐ先にあるのが、土塁の案内です。
草に埋もれていて、案内が無ければ見落としていました。

【写6】北条城

そのまたすぐ先にあるのが、桝形の案内です。
真横から見ると、バッチリ堀底に立っていますラブラブ

【写7】北条城

桝形虎口を上がった所が二郭です。
二郭は低い段が重なっています。

【写8】北条城

その奥には段に見える土塁が連なり・・・

【写9】北条城

さらにその裏には、かなり大きな堀があります。
この堀が二郭と主郭を隔てる大空堀で、北条城最大の見どころです恋の矢

【写10】北条城

壁のように立ち塞がる堀切に、斜めに登る道が付けられています。
往時もこんなだったのかは?ですが・・・

【写11】北条城

登った所が主郭です。
登城口からの所要時間は9分です合格

【写12】北条城

主郭は細長い曲輪で、途中に段差があります。

【写13】北条城

段差からも、さらに細長く奥へと続いています。

【写14】北条城

その一番奥に、本丸跡の案内と「北條古城址」の石碑があります。
石碑脇の新しい案内には「詰城跡」と書かれています。
本丸、古城、詰城・・・どれも正しい事にしておきます。
正解は当時の人しか知りませんからねw

【写15】北条城
説明板を拡大表示

石碑もあるし、詳しい図付きの説明板もあります。
色んなジャンルの城キチ達の欲望を満たしてくれる城跡ですラブラブ

【写16】北条城

元来た方を石碑の前から見た所です。
やっぱり細長いです。
説明板によると、主郭は幅15メートル、長さが160メートルだそうです。
なぜこんなに細長くしたのか?ですが・・・
同族のお城だった安田城も似たような構造なのだそうです。
確かに、安田城も主郭が妙に細長かったです。


◆歴史◆

北条氏の城でした。

築城時期はハッキリしませんが、毛利時元による築城説があります。
毛利時元は越後毛利氏3代目で、鎌倉時代末から室町時代はじめ頃の人物です。
毛利氏は1247年にあった宝治合戦で、反幕府方として行動し敗北しました。
この時、越後にいた毛利経光は関与しておらず、生き残りました。
毛利経光は安芸国にも領地があり、子の代に越後と安芸に分かれました。
安芸の子孫が毛利元就なんだそうです。

越後では毛利時元の子・毛利経高の代に北条氏と安田氏に分かれました。
北条は兄弟か子の北条治良、安田は実の子の安田憲朝が継ぎました。
何があったのかは???ですが、名前の「憲」の字が気になりますw
南北朝時代なので、越後守護となった上杉氏から与えられたと思われます。

安田氏の城だった時期があります。

北条・安田両家はその後も同族関係を続けました。
1506年に安田家の家督を継いだ安田広清は、北条城の城主も兼ねていました。
これは越中で長尾為景の父・長尾能景が討死したことと関係あるそうです。
詳しくはわかりませんが・・・
この後始末で安田清広は重臣の須賀氏を誅殺し、自らも家督を退きました。
北条城主だった北条光広は城主の座を解かれ、上野国から北条輔広が来ました。
北条輔広は上野国大胡城に居たそうですが、繋がりや事績は???です。
北条城への入城を拒まれ、しばらく安田城に居候していたそうです。
安田広清が没すると、前城主・北条光広の子の北条高広が城主となりました。

猛将・北条高広

北条高広は越後守護代・長尾為景に仕え、各地で勇名を馳せました。
しかし、1554年に武田晴信の調略に乗り、長尾景虎に叛いています。
理由はわかりませんが、この謀反は同族の安田景元により通報されています。
もしかしたら、両家は不仲だったのかもしれません。
この時期の越後では派閥争いが長尾家の家督争いとリンクし、荒れていました。
1550年に長尾景虎が越後の主になってからも、派閥争いは続いていました。
安田景元が長尾家中で重く用いられており、その事も関係したかもしれません。
・・・推測ですがあせる
長尾景虎自ら出陣して北条城を包囲したため降伏し、帰参が許されました。
その後、1563年には上野国厩橋城を任されています。
厩橋城は上野国を抑える重要な城で、対後北条氏の最前線でした。
一度は叛いたものの、上杉謙信からの信任は相当なものだったようです。
しかし、1567年に再び叛き、後北条氏に寝返りました。
この時は主家と紛らわしいというので、「喜多条」と表記されています。
本人は「毛利」を名乗ったそうですけどw
翌年、後北条氏が上杉謙信と同盟を結んだため、またしても帰参しています。
あの短気な上杉謙信が、2度まで叛いた家臣をよくもまぁ許したもんですw
1574年に隠居して大胡城に入り、子の北条景広に家督を譲っています。

御館の乱後、開城しました。

1578年に上杉謙信が没し、養子の上杉景勝と上杉景虎が家督を争いました。
この争いは御館の乱と呼ばれ、北条高広・景広父子は上杉景虎を推しました。
御館に入って重きをなした北条父子でしたが、北条景広は御館で討死。
北条城も上杉景勝方の軍勢に攻められて開城しています。
北条高広は武田勝頼の斡旋で上杉家に帰参したものの、以後の消息は不明です。

その後、廃城まで

北条氏の領地は、御館の乱で功のあった桐沢具繁に与えられました。
桐沢具繁って誰?という感じですが、上田衆に属しています。
北条城の他に枇杷島城の番将も務めたので、結構なヤリ手だったんですね!
1598年に上杉景勝が会津へ移された時に、桐沢具繁も従いました。
この時に北条城は廃城となったようです。


所在地:新潟県柏崎市北条

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