節黒城/新潟県十日町市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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節黒城は新田義貞の子・新田義宗により築かれたお城です。
訪問日は2015年8月4日です。

【写1】節黒城

節黒城へは、その名も「節黒城跡キャンプ場」を目指して走ります。
あちこちに案内があるので、超の付く方向音痴の私にはありがたいです合格
その途中の道の分岐点に、案内標柱と説明板が設置されています。
下の地図で右下の方に付けている赤い点がココです。

【全体図】節黒城
図を拡大表示説明板

ここに設置されている説明板に載っている図です。
等高線付きの城の全体図で、ここは「一の木戸」の入口です。
・・・と、今この図を見て知りましたあせる
これから訪ねる方は、ぜひここで一の木戸を見て来て下さいw
図で見ると、城跡への舗装道は当時とは関係無い所に造られているようです。
歩きなら、城への道々に仕掛けられた防御施設を見ることが出来そうです。

【写3】節黒城

そのままズンズン登って行くと、途中で「節黒城入口」の案内があります。
「お、着いたラブラブ」と登りたくなりますが、ここには駐車できません。

【写2】節黒城
図を拡大表示

説明板に載っている、本丸郭群の図です。
上の写真の入口は、この図の一番下にある「下の入口」です。
Google Mapで車道のように描かれていますが、車は通れませんw
ここを通過してそのまま登ると、上にかなり広い駐車場があります。

【写4】節黒城

駐車場から城内を見た所です。
奥に二階建ての木造の小屋が見えます。
これが見えないと「あぁ、通り過ぎちまった!」なんて勘違いしそうです。
この木造の小屋は、2013年に建てられた展望台です。

【写5】節黒城

最近城跡に建てられる展望台は、白亜の模擬天守ではなくなってきています。
こんな感じの木造のものが多く、中世城跡の雰囲気を盛り上げてくれます。
遺構を破壊しない程度なら、こういうのはウェルカムですラブラブ
建てられてしばらくは、ちゃんと草が刈られて散策しやすくなりますしw

【写6】節黒城

展望台の更に先には、かなり立派な石碑が建てられています。
城址碑かと思ったら「上野氏之碑」と彫られていました。
南朝方の城跡だと、こんな感じで城主様の顕彰碑がたまにあります合格
たしかに、敵のラスボス・尊氏クンは、超クセのある人物でしたからね。
そんな初代将軍のおかげで、日本中かき回された時代でしたけどあせる

【写7】節黒城

展望台の背後にはちょっとした高台があり、そこが主郭です。
主郭へは、城塁に沿って細道が付けられています。
ここら辺が、山城らしいちょっとした工夫を感じさせてくれます。

【写8】節黒城

高台になっている主郭にも、何やら石碑が建っています。
あまり期待せずに近づいて見たのですが・・・

【写9】節黒城

城址碑でした恋の矢恋の矢恋の矢
達筆すぎるのでこれだけ見ても読めませんが・・・
ここが「節黒城址」だと知っていれば読めます。
・・・読めたことにはなってませんがあせる

【写10】節黒城

主郭からは、細長い腰曲輪が見えます。
この光景、最近書いたどこかの城跡で見た記憶がありますw
年代的にも属した勢力的にも、同じ人物による縄張りかもしれません。

【写11】節黒城

もうどこか忘れちゃいましたが、こんな堀切も見ることが出来ます。

【写12】節黒城

下から見た腰曲輪です。
土塁は付けられておらず、構造的には古い感じがします。
ただ、柵を設置され兵を横一線に並べられると、攻め込むのは至難の業です。
ここを攻める目線で色々妄想すると、後から写真で見ても楽しめます音譜


◆歴史◆

正平年間(1346~70年の間)に新田義宗により築かれました。

新田義宗は新田義貞の三男で、正室の子のため家督を継ぎました。
1338年に父・新田義貞が没すると、越後に潜伏したと考えられています。
1352年、新田義宗はいとこの脇屋義治とともに一時鎌倉を占領しました。
しかし、足利尊氏の逆襲に遭い、越後に逃れています。(武蔵野合戦)
この時に急造されたのが節黒城と考えられています。
突貫工事で木は黒く、節が付いたままだったのが名の由来と伝わります。
当時は足利尊氏vs反対勢力だったため、足利直義方の上杉憲顕は味方でした。
そのため、鎌倉公方の足利基氏は1353年から9年間、入間川御殿に常駐。
上野国の上杉憲顕と越後国の新田一族と対峙し続けました。

1368年、新田義宗が戦死しました。

1358年に足利尊氏が没すると、三つ巴だった勢力図が一変します。
一般的には足利尊氏vs直義兄弟の対立として描かれますが・・・
実情は、足利尊氏vsその他足利一族だった感じが個人的にはしますw
その足利尊氏の死後、鎌倉公方・足利基氏は上杉氏の復帰を図りました。
1362年、関東管領・畠山国清を突然解任した上、反抗したとして討伐。
この後釜に、足利尊氏により追放されていた上杉憲顕を復帰させています。
関東管領の任命権は将軍にあるので、足利義詮もグルという事になりますw
1363年にはこれに反発した宇都宮氏を討伐する構えも見せ・・・
許してあげる代わりに、宇都宮氏から越後国・上野国の守護職を剥奪。
その後釜も、やはり上杉憲顕を据えたのでしたw

足利方が1つにまとまった事で、南朝勢力は劣勢となりました。
越後守護に返り咲いた上杉憲顕は、国内で抵抗を続ける新田一族を討伐。
1368年、新田義宗は武蔵平一揆に呼応しましたが、上野国で戦死しました。

戦国時代は上野氏の城でした。

上野氏は新田氏の子孫で、戦国時代は上野家成が城主でした。
上野家成は下平吉長と争い、上杉家中を二分する争いの発端となりました。
これが1556年、長尾景虎(=上杉謙信)の出奔騒動へと繋がっていきます。
・・・結構大きな事件の発端となったんですねw
上野家成は対後北条氏のキーマンだったようです。
越相同盟では使者となり、後北城軍から上野の沼田城を守っています。
御館の乱では上杉景勝方となり、上杉景虎派の下平吉長は没落しました。
しかし、1598年の上杉景勝の会津移封には従わず、越後に残っています。

1601年、上野家成が米沢へ移り廃城となりました。

関ヶ原の戦の際、越後で上杉旧臣が大規模な一揆を起こしました。
これは越後復帰を狙った直江兼続による策です。
しかし、堀秀治はもう一枚上手の策士で、この一揆は鎮圧されました。
関ヶ原での本戦で徳川家康が勝利すると、上杉景勝は米沢へ移されました。
この時に、上野家成は米沢へ移っています。
上野家成も一揆に参加し、越後に居づらくなったのでしょうか・・・?
何となくですが、この一揆を起こすために残されたような気がします。
城主不在となった節黒城は、この時に廃城となりました。

2013年11月、展望台が建てられました。

主郭脇の曲輪に木造の展望台が建てられました。
ここのストビューを見たら2013年8月時点で、展望台の完成前でした。
思わぬタイムスリップを楽しめたので、ぜひ見てみて下さい♪


所在地:新潟県十日町市上野甲

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