訪問日は2018年2月12日です。

那珂城は、宮崎県総合農業試験場の西の山にありました。
北から諏訪城・中ノ城・端ノ城と大きく3つの曲輪から構成されています。
どこがどの曲輪なのかはチョットわかりませんが・・・
地図で見ると、諏訪城?っぽい山に入っていく道が描かれています。
事前に見たストビューでは、道の入口にゲートはあるものの開いた状態。
おし、ここから入れる!と、そこへ向かったのでした。
しかし、到着してみると、城跡への道?は閉ざされていました


ゲートの真ん中に何か貼ってあるので、近づいて見ましたが・・・
プラスチックのベースに張られた紙は剥がれ、落ちかけていました。
この落ちかけの貼り紙をめくってみましたが、右下に「場長」とあるのみ。
肝心の文面はすっかり日に焼けたようで、読むことは出来ませんでした。

農業試験場だし、獣避けのゲートなら開けられる!と思いましたが・・・
獣のみならず、人間でもこれは特殊技能が無いと開けられません

という事で、基本ここから先に入って欲しくないことはわかりました。
まぁ、事前に何となくそういう事はわかっていましたけどw

通せんぼされていない山道があればと、とりあえず周りを走り回りました。
先程のゲートから南へ進むと、こんな看板のある開けた場所があります。
これが一体何の場所なのかは?ですが、下那珂桃源郷という場所です。

公園のような、公園じゃない何かのような、こうやって見ても?です。
城キチ目線では、この細長く窪んだ地形が堀跡のように見えました。

堀跡っぽい所の南側は、こんな感じの湿地となっています。
堀跡、、、ですよね?

バス停っぽい看板の脇からは、窪みを渡る橋が架かっています。
橋の山側には特に何も無く、何の目的なのか???です。
もしかしたら、山へ入るためのものでは?と、期待が膨らみました


通せんぼされていない道があれば!と探してみました。
しかし、山側はずっとこんな感じで、山に入る道は見当たらず。
普段ならこれくらいの

さっき山へ通じる道が門で閉ざされているのを見たばかり。
道が無いならアウトでしょ?という事で、ここで撤退しました。

それでも名残惜しいので、さらに南の貯水池脇から遠景を撮りました。
行けてないので、どこがどうなのか?ですけどw

さらに南は、一面田んぼでした。
かつては沼に囲まれていた山城だったんでしょうね!
◆歴史◆
築城年代、築城者等わからず・・・
とにかくググりまくってみましたが、殆ど何も出て来ません。
わかったのは、永禄年間(1560年代頃)の城主のみ。
その名は郡司弥六左衛門尉、湯地出雲守、宇都宮左馬助の3人です。
各人それぞれググっても何も出ず。
ただ、湯地出雲守は郡司弥六左衛門尉の後に城主になったようです。
あと、同姓で出てきたのが湯地五郎九郎と湯地定時です。
湯地五郎九郎は、約7km北にあった富田城の城主です。
地図で見ても近く、かなり近縁の人物と思われます。
文書によっては「湯地出雲守」とも記され、同一人物の可能性があります。
湯地五郎九郎は、伊東義祐が豊後落ちを決めた日に島津軍に寝返りました。
「降伏」ではなく「寝返った」と書かれている所に興味を引かれますが・・・
詳しいことはわかりませんでした

もう1人出てきた湯地定時は、御感状連判衆に名を連ねる重臣です。
伊東義祐が豊後へ落ち延びた後も、三納城に立て籠もりました。
攻め寄せた島津軍を撃退するなど、激しく抵抗しましたが・・・
援軍に来るはずの大友軍が耳川の戦で島津軍に大敗したため孤立。
島津軍に包囲され、城を枕に討死にした人物です。
1577年、島津家の城となりました。
那珂城の湯地出雲守の動向は?ですが、戦後は島津家の城となりました。
すぐ西にある佐土原城の属城となり、九州征伐後も島津家の城でした。
島津時代の城主や廃城時期などはわかりませんでした

所在地:宮崎市佐土原町下那珂
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