曽井城/宮崎市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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曽井城も伊東四十八城の1つで、跡地には病院があります。
訪問日は2018年2月10日です。

【写】曽井城

ここはどうやって行こうか?という以前に、全体が病院の敷地となっています。
発掘調査の結果、古代の遺物なども見つかったそうですが・・・
現状は、平地にポッコリ浮かぶ島のような地形が往時を偲ばせるのみです。
この光景だけで、城キチ脳内ではあれやこれやと十分偲ぶことが出来てますw


◆歴史◆

1361年の『一色範親感状』に登場します。

土持時栄の軍功に対し、一色範親から感状が贈られました。
この軍功は、南朝方との間で曽井城を巡り戦った事に対するものです。
土持氏は土持宣栄が1337年、北西約2kmにある大塚の地頭となりました。
その後の今川了俊の書状の宛名にも「土持大塚左近将監」と書かれています。
今川了俊が九州探題だったのは、1372~1395年の間です。
その頃までは、土持氏がすぐ近くの大塚地頭だったと考えられます。

天授年間(1375~81年の間)、曽井祐善の城でした。

曽井氏は鎌倉時代に日向に下向した、門川伊東氏の庶流です。
南北朝時代は?ですが、他の伊東氏庶流と同様南朝方だったかもしれません。
門川伊東氏も曽井氏も動向が不詳ですが、周辺のお城は・・・
・清武城:1379年に清武祐行(門川伊東氏)が改修
・石塚城:1401年に伊東祐武(門川伊東氏)が入城
・宮崎城:元々は土持氏の城が1446年落城時の城主は曽井氏
という事で、天授年間に門川伊東氏が土持氏から奪った可能性があります。
曽井氏は応永年間(1394~1428年の間)、島津久豊の娘を娶っています。

1412年9月、伊東祐安に攻められました。

島津久豊が鹿児島へ行っている間に、伊東祐安が攻めて来ました。
島津久豊は曽井城に援軍を出して、源藤川付近で伊東軍と衝突。
その結果島津軍が敗れたため、曽井氏は伊東祐安に服従しました。
この戦いで島津久豊の居城・穆佐城も落城し、伊東祐安が奪っています。

1444年、伊東祐堯により攻め落とされました。

伊東宗家の家督を継いだ伊東祐堯は、真っ先に曽井氏を攻めました。
曽井氏は島津家と婚姻関係にあり、伊東宗家には反抗的だったようです。
伊東祐堯は曽井城のほか、曽井氏の宮崎城もこの時期に攻め落としています。

永禄年間(1560年代)の城主は八代民部左衛門尉でした。

永禄年間頃の城主は八代民部左衛門尉です。
この人物についてググってもヒットせずあせる
曽井城主だった事と、後に下野守に改名した事しかわかりませんでした。

1577年、島津家の城となりました。

伊東義祐が豊後へ落ち延びると、島津家臣・比志島義基が城主となりました。
宮崎城主・上井覚兼の『上井覚兼日記』にも度々登場するそうです。
この城主様をググってみてビックリ。
何と、島津家の筆頭家老・伊集院忠棟の実弟だそうです。
1599年に起きた庄内の乱ではガッツリ伊集院方だったそうですが・・・
乱後、一切処分を受けなかったという謎多き人物ですw

1587年、伊東祐兵の城となりました。

豊臣秀吉によって島津家が討伐された後、伊東祐兵の居城となりました。
この時に、黒田如水の縄張りによって大改修が加えられました。
しかし翌年、伊東祐兵はかつての居城・飫肥城も与えられそちらへ移りました。
その後の曽井城主は川崎権助です。
川崎権助が朝鮮出兵中に戦死した後の城主は不明です。

元和元年、一国一城令により廃城となりました。

1964年、城跡に病院が建設されました。

重機により整地が始まってから、慌ただしく発掘調査が行われました。
その結果、多くの竪穴が見つかり、中から古代の遺物が見つかっています。


所在地:宮崎市恒久

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